「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月7日(木) ロチェスター到着。イーストマン・コダック社、婦人靴製造所、銅版石版会社、花卉栽培園等を見学 【滞米第37日】

「ロチエスター商業会議所」徽章

「ロチエスター商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第268号 (1910.09) p.21-27

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月七日 木曜日 (晴)
午前四時二十分バツフアロー市を発車して、六時三十分ロチエスター市に到着す、朝食の後午前九時下車し、歓迎自動車に迎へられて各自随意の方向に馳す、青渊先生は先づ児童の教育を視察すべく二・三の小学校を見、当市立技芸学校・市立図書館を見て、ロチヱスター・ホテルにて於て一行と共に商業会議所より午餐の饗を受け、再度自動車に乗じて一同エーストマン写真機製造所を一見す、畢りてセネガ公園始め、ジヨンス、ブラウンス、ゼネシー、バーレー、ハイランドの四公園を巡回して、五時半汽車に戻り直に服装を改め、七時よりセネカホテルに於て商業会議所の催に係る晩餐会に出席す、会頭マイナー氏国会議員スミス氏の演説に次きて、青渊先生は一行を代表して演説を為し、尚製紙業者ジヨンス氏、神田男爵、同行の米国側委員ムーア氏の演説ありて、午後十二時散会、急ぎ列車に帰着す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.178掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第十三節 ロチェスター
十月七日 (木) 晴
午前六時三十分ロチェスターに着、同九時出迎の自働車に分乗し、小中学校及イーストマン写真器械会社・婦人靴製造所・銅版石版会社・花卉栽培園等を巡覧し、午後一時ロチェスター・ホテルに於ける略式午餐会に臨む。午後は又市内公園其他を巡覧し、五時半特別列車に帰る。同七時よりゼネカ・ホテルに晩餐会あり、同席上去る明治十三年、故グラント将軍に随従して日本に来たりしことあるマクハム氏あり。渋沢男之を聞き、太く懐旧の念にかられ、其意を演説中に洩らせり。次に下院議員にして、外交部委員長たるパーキンス氏は、日米外交に付て演説を為し、
  「日米両国の間には、商業上の競争は在るべきも、政治上に於ける競争の必要を見ず。日米の戦争を予想し予言するものは、恰も世界の終りの近づけるを予言するものと同様なり。若し日米間の衝突ありとぜば、そは世界の終る時なり」
と論破し大喝采を博せり。次に神田男其他の演説あり。又当夜の献立書は、嘉永年間ペリー提督の結びし最初の日米条約の条文(日米文ともに華府書庫所蔵)を縮写し、尚ほ当時の米使上港の図(ペリー・ベルモント家所蔵)を複写しありたるは、頗る一行の感動を惹けり。会後列車に帰ること例の如し。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.194掲載)


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