「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月6日(水) 商業会議所での略式レセプションの後、ナイアガラを見学。夜は勧業博覧会開会式に出席 【滞米第36日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

○十月六日以後ノ日記ヲ欠ク。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.157掲載)


竜門雑誌』 第268号 (1910.09) p.21-27

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月六日 水曜日 (晴)
午前九時三十分ホテル迄出迎へられたる自働車に分乗して、青渊先生以下一行商業会議所に於て催ふされたる略式レセプシヨンに参集す、製造倶楽部頭取兼市長フランク・エー・ベーヤー氏は、市を代表して謹て諸君を歓迎す、本職は多く言ふを要せす、諸君願はくは親ら充分視察せられて、充分利益を得られん事を希望すと、簡単にして尽したる挨拶を述べ、次きに商業会議所会頭エー・シー・マツクドーガル氏は、諸君の来遊は市民挙て歓迎する処なり、諸君は此機会に際し十分視察を遂け、利益する処は之を利用せられんことを希望す、吾々は諸君の国より学ふべき事一にして足らす、山林の経営、市の行政及軍事衛生是なり、我市の行政は甚た不完全なり、日本は最近の戦争に於て偉大なる功果を奏せり、就中軍事衛生の完全なりしは、我等の大に敬服する処なり、然れとも我等の主とする処は平和なり、加奈太の如きは何時如何なる困難を引起すやを知るべからざるも、若し日英米の三国が協力団結するに於ては、将来国際間に何等異変を生する事なかるべきを信すると共に、之が実行を希望するものなり云々と述べ、於是青渊先生は一行を代表して、先づ当市民及実業家が挙て一行を歓迎したるを深謝し、又一行の茲に来遊するに到りし理由を説明し、且演べて曰く、一行米国に上陸以来、到る処熱誠の歓迎を受け来れるものなるが、当市に於ても亦頗る懇切なる歓迎の温情に接するは、蓋し日米両国実業上の意志相融和し居るの結果ならすんはあらず、会頭マツクドーガル氏は当市が日本より学ふ処多しと云はれたるも、コハ却て恥入りたる次第なり、山林に関しても、市政に関しても御褒辞を受くる程進歩せず、軍事上の衛生に付ては、維新以来数度の困難に際会したれば、其の時実際より受けたる教訓を実行し居るに過きさるなり、平和を主とするとの御精神に対しては、吾々は決して当市人に譲らさるものなりと断言するを憚らざるなり、我々一行は既に平和の使節なり又日英米三国聯合云々の御説ありたれと、吾々深く思考するに、実業界に於て商業上の握手を為すときは、ヨシ政治上の聯合なしと雖とも其握手を分離せさる以上は、政治上の団結より以上の効果ありと思考す、云々、畢りて市中を巡回し、途中マツキンレー氏紀念碑や、マツキンレー氏が無政府党員ツオルゴスの為に負傷を負はせられ後治療を受けられたるミルバーン氏邸宅等を、車上より瞥見しつゝ、共同墓地(墓地の価は巾二十尺長十六尺にて、三百五十弗乃至五百弗なりと云ふ、埋葬は凡て土葬なり)を巡回の後、当市水道貯水池を一覧す、イリー湖より淡水を吸収して、一日一人の用量三百五十ガロン宛の計算を以て全市に供給すと云ふ、夫れより婦人会員のみより組織せられたる二十世紀倶楽部に至り、又バツフアロー倶楽部を看る、ダイニングリーデング、スモーキング、ライブラリー、ビリヤードの各室、水泳池、浴室・遊戯室・酒舗の各室、到れり尽せりと言ふ可き装置なり、一覧畢りてヱレベーター製造会社に到りて製造の状態を看、正午ホテルに帰着して、商業会議所開催のランチオンに臨む、同会頭マツクドーガル氏の簡単なる挨拶に対し、青渊先生一行を代表して、又簡単に謝辞を述べ、且商業会議所より代表者として、ローゼンバーク氏を、遥々太平洋岸迄派出して、爾来一行の為に大に尽力せられたるを深謝せられたり、終りて午後一時四十五分、テレース停車場より特に一行の為に用意せられたる特別列車に乗して、ナイヤガラ瀑布に向て出発す、二十浬の距離を四十分計りでナイヤガラ市に着し、下車すれは十数台の自働車は已に一行を待受けたり、是は吾々の午餐中バツフアロー市より差廻されたるものなりと云ふ、青渊先生以下一同之に分乗して先づプロスペクト公園を通り抜け、山羊島橋ゴートアイランドブリツヂを過きてゴート島に到り、自働車を降りて、断崖絶壁の岩上より鉄柵に椅りて、アメリカ瀑布の滝口より急転直下する激流を瞰下したるときは不思快哉を連呼したり、此瀑は高百六十呎巾八百呎、奔湍飛沫濛々として上り、日光之に映して美麗なる虹を描出し、其景実に名状すべからず、夫より沿岸の道路を馳車して三姉妹島の風光を賞し、再ひ他の断岩の頂上に到りて蹄鉄形せる馬蹄の滝ホールスシユー(又加奈太滝とも云ふ)を見る、高さ前者と同一なるも、長さは確かに之に数倍せり、上流の水洋々として大海の如く、濃青色の波濤を翻し、更に一転下すれは鼕々として天に轟き地に響き、幾万斤の綿を攪乱して無限に落下するが如く、又瀑壺よりは飛湍高く中空に舞ひ、其豪大なる状態、壮厳なる景色は、到底筆にも辞にも現はす事能はざるなり、此下を一隻の小蒸汽船白煙を吐きつつ悠々と往来するを見る、コハ此瀑見物者の為めに備へられたるものなりと云ふ
夫れより英米両国を聯絡する鉄橋(長千弐百呎)を超へて、対岸英領加奈太に到る、此橋の両端に各関税ありて、出入人の荷物を改めつゝあるを見る、鉄橋を通過すれば茲に特別仕立の電車三台用意せられ、青渊先生以下之に分乗して、ナイヤガラ河上流沿岸のオンタリオ発電会社に到り、其屋上運動場より急流ラピツドの豪壮なる様を見、去て又他の電気発電所を見て、馬蹄の滝の前面に位置するリフレクトリ割烹店に於て、加奈太政府より吾々一行出迎の為に派遣せられたるダブリユー・テー・アール・プレストン氏の催されたるレセプシヨンに出席し、同氏の歓迎の辞に対し、青渊先生一行を代表して厚く謝辞を述べられたり、斯くて一行は米国に来りて英領に入り、同盟国より款待を受けたるは特に記念すべきことなりとす、夫より再度、馬蹄滝を前面より賞し、電車に乗して更に亜米利加瀑布を前面より展望して、加奈太領を岸に沿ふて徐々として下る、漫々たる河水が迫らず急かす流れ行くかと思ふと、急ち急流奔湍と変し、怒濤号動し、白波丈余に上騰して、飛沫数十丈の岸を潤す、豪壮言ふべからず、夫れより又渦巻の場所に到り、大小幾百の渦巻奇観を呈するを見、進んでブロツク将軍の紀念塔の処より下流の橋ローワーブリツヂ(長八百二十五呎)を渡りて米国に帰着し、右岸を溯りて景勝を賞しつゝナイヤガラ市に到り、ナイヤガラ水力電気会社を参観す、地下弐百呎迄ヱレベーターに依りて卸され、茲に装置せられたる吸水の巨大なる鉄管に付きて説明を受け、夫れより地上に出でゝ諸設備を参看し、了りて用意せられたる自働車にて途中製菓会社に立寄り、一覧の上元の停車場に来り、特別汽車に搭してバツフアロー市に帰着し、直にホテルに帰る
晩餐畢り、午後九時当市勧業博覧会の開場式に臨む、総裁マツクドーガル氏の演説に次きて、青渊先生は一行を代表して左の意味の演説を為せり。
  吾々一行当市に到着したるに際し、恰も博覧会の開設せらるゝあり併し未だ開会せられざるにも不拘、特に一行を招致して参観を許されたるの厚意は実に深謝する処なり。
  吾々の旅行は、実業団体にして、公式の官命を帯びたるものにあらず、故に吾々は産業発展の為に設けられたる博覧会を参観するは、特に喜悦する処なり。
  日米両国の親善は半世紀以上継続するものなり、回顧すれば五十年前コンマンドル・ぺリーが始めて日本に来り、吾人の永夢を醒覚せられしが、当時の大統領は当市のヒルモーア氏なり、昨日も今日も同氏の旧住宅前を往復して、今昔の情に堪へざりしなり、蓋し日本の今日の有様に進みたるは同大統領の賜なりと思考す、若し同氏無かりせば日本は如何の状態に在りしかと、思ふて茲に到れば、日本が此地に負ふ処頗る大なる事を覚ゆるなり云々
次ぎに市長アダム氏の演説あり、終りて茶菓の饗を受け、午後十二時汽車に戻る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.176-178掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第十一節 ダンカーク及バファロー市
十月六日 (水) 晴
午前九時十五分、一同出迎の自働車に分乗し、商業会議所に向ひ、同所にて接見会あり。之れより各自希望により、工場・会社等を巡覧し、十二時帰館す。零時三十分、商業会議所の主催なるホテル内の午餐会に臨む。会頭マクドーカル氏及市長アダム氏の歓迎の辞あり。次に渋沢男は、之れに対し叮重なる答辞演説を為す。午餐会終るや直に停車場に赴き、一時三十分列車にて、ナイヤガラ瀑布に向ふ。二時半ナイヤガラに着、直に自働車に分乗し、山羊島に至り、先づアメリカ側の瀑布を見、夫れよりグファル島を廻り、蹄鉄の瀑を見る。更に一巡して米加間の大橋を渡り、英領加奈陀に入つて、ヴヰクトリヤ公園・テーブルロック水力電気発電所を一巡し、帰途テーブルロックの近傍なる一旗亭に立寄る。加奈陀政府より特に派遣せられたるプレストン氏は、此処に一行を待受け、同氏の歓迎の辞、及渋沢団長の答辞あり、互に三鞭の杯を挙げて、日英両皇帝陛下の万歳を唱へ、後直に特別電車に乗組み、絶景を賞しつゝ下流に向ひ、ローヱル橋を渡りて、再び米国領に入り、二時間計にしてナイヤガラ市に帰る。此処にて水力電気の発電所を見物し、其宏大なるには、嘆賞を禁ぜざる者あり。斯くて七時乗車、バファローに向ふ。七時四十分バファロー市に帰着、直にホテルに入り、各自夕食をなし、又自働車に迎へられて、恰も当夜我一行の来市を機とし、開会の式を挙んとする工芸共進会場に向ふ。途中の雑踏言はん方なく、満市又イルミネーシヨンを以て飾らる。(会場は市の中央に在りて、元軍隊の営舎なりしが、昨年来空家となり居れる由)一同定めの席に着くや、会長ロバートソン氏開会の辞を述べ、フヱヤタ総裁歓迎の辞を朗読す。終つて渋沢男立つて卓上のボタンを押せば、場内一斉に点火し、壮観極無し、是を開会の式となす。夫れより来集一同の拍手に迎へられて、渋沢男祝辞を述ぶ。式後一同は別室に茶菓の饗応を受け陳列品を巡覧して、後直に列車に帰る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.193-194掲載)


参考リンク