「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月4日(月) 鋼鉄・鋼線会社、福祉施設、学校等を視察。晩餐会に石油王ロックフェラー出席 【滞米第34日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

十月四日 曇 冷
午前六時半起床、直ニ入浴シ、畢テ日記ヲ編成ス、八時朝飧ヲ食シ、九時市内ニアル鋼線製造会社ニ抵リ、場内各所ヲ巡覧ス、鋼線ノ細キモノハ〓[糸+旨:きぬ]糸ノ如キニ至ル、実ニ巧緻ト云フベシ、一覧畢リテ公園ニ抵リ、草木培養ノ事ヲ説明セラル、十二時過青年会ノ案内ニテ商業会議所ニ抵リテ、会員ト会シテ午飧ヲ共ニス、食後一場ノ演説ヲ為ス、二時旅宿ニ帰リ、更ニ頭本氏ト共ニヘリツク氏ノ銀行ヲ一覧シ、又他ノ銀行ニ抵リテ、市内電車鉄道ニ関スル処置ノ事ヲ聞ク、後自働車ニテ十哩余ノ田舎ニ赴キ、養老院及感化院ヲ見ル、合計人員約七・八百人其経費ハ市ヨリ支出スト云フ、一覧畢リテ帰宿シ、此夜七時半商業会議所ノ催ニ係ル宴会ニ出席ス、有名ノロツクヘーラー氏参席シテ、種種ノ談話ヲ為ス、会頭ノ演説ニ次テ、一場ノ答辞ヲ述ヘ、夜十一時散会、十二時汽車ニ帰リ、午(前)一時就寝、汽車夜中ニダンキルクニ向テ進行ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.156-157掲載)


竜門雑誌』 第267号 (1910.08) p.40-47

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月四日 月曜日 (晴)
午前九時青渊先生始め一行は自動車に分乗してホテルを発し、米国第一と称せらるゝアメリカ鋼鉄々線会社を見る、原動力を発する汽鑵室に到れば一処に積載されたる石炭が機械に依りて自動的に焚口に投じ焼滓及灰等亦、自動的に鑵外に出つるを見る、夫れより順次製線工場に到れは、幾条と無く赤き鉄線が縦横に馳て、自ら入るべき窄道(鉄線を順次細める窄度なり)を尋ね進入して、出ては亦入り、漸次細き窄道を自ら通過して、始め長三尺厚一寸五分幅二寸五分の鉄片が、遂には径一分位の針金に変形す、其尤も細きものは絹糸の如し、又錆留の装置を一見す、之は前記の鉄線が又自動的に鉛・亜鉛又錫の鍋中を一度通過するときは、之が鉄線かと見まがふ計の美麗なる針金と変ず[、]又針金の剛質を柔かく為す装置を見る、之は針金を円筒形の土焼壺に入れ密閉して電気を通ずるなり、一覧終りて公園に到り附属の植物暖室及種々の花卉を見る(米国の公園は何れのものも暖室を備へ置き、花卉を培養しては時々公園に移植するを常とす)夫れより転じて技芸学校を参観す、幾多の生徒仕事場に着して珍客の来観にも目も呉れず孜々として勉強する様いと床し、是より午後に掛けては一行随意の視察となりたるが、青渊先生は当地基督青年会の案内にて商業会議所内の会堂にて午餐の饗応を受け、食後演説を試みられ、夫れより偶々本日開会せらるゝ当地電気鉄道に関する調査委員の報告会に出席して其報告を聴聞せられ、又養老院及感化院を参観せらる、収容人員長幼合せて七八百名、経費は市の支出に属すと云ふ、午後六時帰宿せられ服装替の上、七時半商業会議所に於て開かれたる晩餐会に出席し、有名なるロツクフエラー氏と隣席に着席、種々談話を交換せられたり、演説は会頭の歓迎演説に次きて、青渊先生一行を代表して一行渡米の理由を述べ、且歓迎に対し謝辞を述べられ、夫れより米国人側にて三名の演説あり、午後十一時解散、ホテルに帰着し、服装替の上直に列車に搭乗す
三日夜十時インデアナ号にてクレブランド市を出発したる中野氏一行は、本日午前七時二十分ナイヤガラ瀑布に到着して、久邇宮殿下を奉迎し、殿下より懇篤なる令詞を賜はりたり、尚殿下には一行の為めに三鞭酒の盃を挙けて実業団使命の成功及旅行の平安を祝され、一同感佩して退出したり
殿下にはローマン氏が実業団の為めに非常に尽力せる旨聞し召され、金剛石入カフス釦一組を下賜せられたり
斯くて総代の一行は、同日正午同客車に搭乗して、午後五時クレブランド市に帰着したり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.174-175掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第九節 クリーブランド
十月四日 (月) 晴
午前九時出迎の自働車に分乗し、亜米利加鋼鉄及鋼線会社・工業学校等を参観し、午後は各自の希望により工場・学校・慈善事業等を視察研究す、此間婦人連は、特に幼稚園・小学校等を参観せり。
午後一時より商業会議所に青年会主催の午餐会あり。団長・渡瀬・南・石橋・巌谷・田村・西池・川崎の諸氏出席す。又原・堀越・田辺の諸氏は、当市建築業者の招待を受けて、同じく商業会議所内の午餐会に臨む。午後七時半より、商業会議所内に盛大なる晩餐会あり。例の石油王ロックフェラー氏も出席せしが、氏が此種の宴席に出づるは二十年来無きことなりと云ふ。宴後列車に入る例の如し。
   附記 久邇宮・同妃両殿下に拝謁の事
紐育に於て挙行されたる、ハドソン・フルトン祝典に参列遊ばされたる、久邇宮邦彦王及同妃両殿下には、十月三日午後紐育御出発、御帰朝の途に就かせらるゝ筈なれば、此際一行は両殿下に拝謁し、敬意を表せんことを熱心に希望せるも、本来主人側なる米国委員の予定プログラムに依りて行動するものなれば、如何に両殿下に拝謁の為めとは云へ、此予定を変更すること困難なり。然るに恰も一行は、十月三日よりクリーブランド市に入り、翌四日は尚ほ引続き滞在するの予定なるを以て、四日午前、両殿下がナイヤガラ瀑布附近に、数時間御滞在あるを幸ひ、有志の輩は特に同地に出向し、敬意を表することゝなしたり。
元来団員一同洩れなく拝謁せん事は、勿論希望に堪へざる所なれども、かくてはクリーブランド主人側の好意に戻るの嫌あるを以て、十月三日総会の決議に依り、一行中の数名のみ、両殿下の御機嫌伺の為めにナイヤガラに向ひ、団長初め団員の大部分はクリーブランド市民の好意を空うせざらんが為めに、同地に留まる事となれり。而してナイヤガラに赴きたる者は、紐育総領事水野幸吉・シカゴ領事松原一雄の両氏の外、団長の指名により、団員中、中野武営・神田乃武男・土居通夫・西村治兵衛・大谷嘉兵衛・伊藤守松・加藤辰弥の諸氏、並に水野総領事夫人、及び太平洋聯合商業会議所を代表せるローマン氏を合せて、総計十一名とす。
此一行は、十月三日の夜普通列車に附着したる特別列車に搭じて、クリーブランドを発し、翌早朝ナイヤガラ着、同瀑布加奈多側の旅館「クリフトン・ハウス」に於て、両殿下を御待受けしたる処、間もなく御着あり、水野総領事の執奏にて一々両殿下に拝謁御機嫌を奉伺し、殿下より懇篤なる令詞を賜はりたり。尚ほ殿下には一行の為めに特に三鞭酒の盃を挙げて、使命の成功、及び旅程の平安を祈られ、一同感佩して退出せり。
尚ほ其節殿下には、ローマン氏が一行の為めに、非常なる尽力を為せる旨を聞し召され、御感斜めならず、金剛石入カフス釦一組を贈与せられ、水野総領事には、銀製御紋章付巻煙草入を御下賜ありたり。
同一行は、同日正午客車に搭じて、午後五時クリーブランドに帰着す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.192掲載)


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