「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月3日(日) 渋沢栄一、佐々木勇之助に宛てて書簡を出状

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛 1909(明治42)年10月3日 (佐々木勇之助氏所蔵)

八月三十一日附貴翰、米国シカゴニて拝見仕候も、日々多忙ニ罷在御答延引仕候、先以貴台御清適欣慰之至ニ候、老生及実業団一行爾来無事、米国各都市ニ於る歓迎ハ予想以上ニて、只々日夜応答と奔走と饗宴と各事物之見物ニ忙殺せられ居候、併太平洋沿岸ハ勿論、其他内地ニ入りたる各都市ニ於ても、真ニ歓待を尽し、取扱之鄭重なるのミならす、多数歓迎員ハ申迄も無之、市街一般之人士、就中児童抔まて手を挙げ帽を振り、歓声湧か如き有様ハ、愉快此上も無之義ニ御座候、ミネヤホリスニ於て大統領謁見も好都合ニ相済申候、当日老生之演説も米国各種之新聞ニ好評有之候も、タフト氏之演説も尤以厚意を寄せられ候言語ニ有之候、其後セントホールニて有名之セームス・ヒル氏にも会見款談し、且食卓を接して会食仕候、又グランド・ラヒツトニ於てオーブライヤン大使にも会見、同しく会食仕候、只毎日早朝より自働車ニて工場見物いたし、多くハ倶楽部等ニて午飧し、其地方人士少きも百名以上之会合ニて、殆ント毎日二回宛之歓迎演説ニ対する答辞を述候都合ニて、相手ハ代るも当方ハ持切之姿なるニ閉口仕候、併神田男爵ハ英語充分なるニ付、時々英語演説之補助を得て、聊か休息之場合も有之候、尚此末之巡回都市今日よりも多く候ニ付、一面ニハ少々退屈之気味も相生候も、篤と熟考候時ハ、此等之行為ニして両国之通商と平和とニ利益ありとせは、飽迄努力して、此度之挙をして幾分ニても効果有之候様と、弥増奮励罷在候間、御省念可被下候、此等之心事桂首相・小村外相抔へも申上度候得共、中途ニ於て苦心を吹聴候様相成候ハ、却而功を衒ふ之嫌有之候ニ付、多忙旁呈書も見合申候貴兄もし石井次官ニ御逢被成候ハヽ右等之情緒御一言被成下度候、第一銀行之営業別条無之事と遥祝仕候、韓国銀行創立ニ付、株式引受等之都合、兼而御打合之如く相運不申候由、不得已事と存候、爾後公債之価格ハ追々引上候由、定而諸会社株式も上景気と存候、只金融之模様如何ニ候哉、精々御注意被下度候
東洋汽船会社之成行ハ如何相成候哉、十一月末ニハ桑港ニ参り、帰国ハ地洋丸ニいたし候筈ニ付、其際幾分か真想を知り申度と存候、種々申上度事共有之候も、何分執筆之時日無之、匆々拝答如此御座候
                          敬具
  十月三日
                  クリブランドニ於て
                      渋沢栄一
    佐々木勇之助様
            拝復
尚々日下・市原其他之諸君ヘ対しても呈書之時間無之ニ付、欠礼仕候貴台より宜御伝声可被下候、又西脇氏以下ヘも何分之御通声頼上候
米国ニ於て市加古とスポケン、グラント・ラヒツト等ニて、各種類之銀行ヘも参観仕候、随分広大なるにハ敬服いたし候も、一寸一覧位ニてハ中々真想ハ知悉仕兼候ニ付、批評的之言辞ハ申上兼候、乍去森林とか農場とか鉱業とか、運送方法抔之宏大整備ニハ、実ニ欽羨之外無之候、老生或宴会之席上演説ニ、学者ハ理窟ニ陥り、金持ハ憶病ニなり易く、冒険的大胆なる者ハ時態之観察を誤るの弊有之候を、世間之通患とするニ、米国之事業ハ右等数種之難事を容易ニ解決して、一挙併用之概あり、是れ近来米国之事業駸々他国を凌く之実因ならむと論せしも、決而御馳走ニ対する御世辞ニハ無之積ニ御座候、乍序右等申添候也
佐々木勇之助様 親展 渋沢栄一
 十月三日
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.157-158掲載)


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