「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月2日(土) 日本での報道「一行は、米国第二の大都会での歓迎に頗る満足。使命全うせるを信ず」(東京経済雑誌)

東京経済雑誌』 第60巻第1510号 (1909.10.02) p.641-642

    ○渡米実業団消息
ミネアポリスに於て大統領タフト氏に謁見したる我渡米実業団の一行は、九月二十一日同地出発、セント・ポール市に乗込み、オーデトリユームに於て盛大なる午餐会あり、席上市長ローラー氏及大北鉄道会社長ゼームス・ヒル氏の歓迎演説あり、渋沢団長の答辞、神田男の演説あり、二十二日朝マデソンに着し、同地の大学に於て歓迎を受け、同日午後ミルヲーキーに入り、ノイスター・ホテルにて盛大なる晩餐会あり、翌二十三日諸処の工場及学校を参観し、同夜は特に我一行の到着を待てる同地の新築公会堂の開場式に臨み、二十四日朝シカゴに入り、同市商業協会員の盛大なる出迎を受け、世界一のユニオン・ストツク・ヤーヅ会社及鑵詰製造所を巡覧し、午後汽車にてインデイアナ州グレイ製鋼所を参観し、同夜再びシカゴに帰り、爾来二十八日まで同市に留り、諸処を視察し調査を為したるが、一行は日を逐ふて米国文明の進歩に驚嘆しつゝ、元気旺盛に歓待を受けつゝあり、殊に二十八日コングレスアンナツクス・ホテルに於ける同地商業会議所主催の大晩餐会は最も盛大を極めたり、席上会頭スキンナー氏の挨拶に次で、イリノイス大学総長ゼームス博士は、嘗て日本大学生を教へたる経験を述べ、進んで米国人は日本の子弟は東洋のヤンキーと呼び、独逸人は東洋の独逸と謂ひ、仏人は東洋の仏蘭西と称し、英人は東洋の英国人となりと称するも決して然らず、日本は飽くまでも東洋の日本帝国なり、日本は決して欧化し米化する必要なし、寧ろ我等米国人こそ此の日本の趣意を採て、西洋の日本と呼ばれん事を期すべし、日本の成功は米国の成功なり、日本の失策は米国の失策なり、共に相提携して努むべしと論じ、其他諸氏の真率熱心なる演説交換あり、盛会夜半を過ぎんとす、米国に於ける第二の大都会に於て此種の好情歓迎を受くるは、一行の頗る満足する所にして、予定未だ半に達せざるも、既に使命の一般を全うせるを信ずとは、本国に対する電報なり、斯くて一行は同深夜直に汽車に投じ、サウスベンドに赴けり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.198掲載)


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