「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月28日(火) サウスベンド到着、スチュードベーカー社やノートル・ダム大学等を見学 【滞米第28日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

   ○九月二十七日ヨリ十月一日マデ記事ヲ欠ク。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.156掲載)


竜門雑誌』 第267号 (1910.08) p.40-47

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
○上略
九月二十八日 火曜日 (晴)
午前六時三十分サウスベンド市に着す、車中にて朝食を終り、九時三十分青渊先生以下一行、商業会議所歓迎委員の案内自動車に分乗して市中を巡覧の後、スチユードベーカー車輛製造会社を観る、資本金五百万弗、従業者の数二千八百人、各種車輛・自動車等を製作す、日本なれは大工が鉋を以て削る処を、凡て革砥を以て為すは一見奇異に感せられたり、夫れより市庁に到り、建築及び図書室・食堂等を巡覧し又第一国立銀行に到り、営業の状態、金庫の装置等を観る、青渊先生は頭取と会し、種々質問せらるゝ処ありしが、同行の紙幣発行額は資本金(十一万五千弗)を限る事、割引手形は最長期九十日以内なる事其利息は年六分の割なる事、預金は凡て無利足なる事、貸付金は多くの場合無担保なる事、取引先は商売人及製造家なる事、株主配当金は年一割を毎期継続せる事等なりし、十二時十五分ノートル・ダム大学に到る、同大学は千八百四十四年の創立にして、加特里久宗に属す、廊下に閣竜に関する種々の絵画を掲け、又窓の上部及天井には、有名なる画伯グリゴリー氏の筆に成る彩色の種々の絵画あり、又講堂の正面には日本の仏壇に均しき装置あり、続て附属チヤーチを参観し、畢りて同校食堂にて午餐の饗を受け、夫れより三時、基督青年会に到るスチユードベーカー車輛製造会社の寄附なりと云ふ、図書室・読書室・小児読書室・食堂・浴室(温浴、蒸汽浴等あり)夜学室(徒弟の為に設けたるものなり)球戯室・寄宿室等を観たるが、其整備の完全せるには只驚嘆の外なし、畢りて四時三十五分列車に戻り、服装を改め、五時五十五分オリバー・ホテルに到り、商業会議所の開催に係る歓迎晩餐会に臨み、司会者の歓迎の辞に次きて、青渊先生一行を代表して謝辞を述べられ、十一時停車場に帰着して列車に搭し、同四十五分グランド・ラピツドに向つて発車す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.169-170掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第三節 サウス・ベンド市
九月二十八日 (火) 曇
午前六時半サウスベント停車場に着、同八時四十五分、出迎の自働車に分乗し、スツードベエカー車輛会社を参観し、後ち市中を巡覧して、市外なる「ノートル・ダム」大学を訪ふ。同校は基督旧教派の教育機関にして、小学・中学・大学、及女子大学等各部を兼ね備ふ。同校食堂に於て、午餐を饗せられ、午後二時四十分、市内の青年会館に向ひ、公衆の接見会に臨む。該館はスツードベエカー氏創業五十年の紀念として、市に寄附したる者なりと云ふ。
午後五時一先づ列車に帰り、更に午後六時、再び出迎の自働車に分乗し、オリバア・ホテルの晩餐会に臨む。十一時特別列車に帰り、同四十五分グランド・ラピッドに向つて発す。
当夜の招待会の席上、当市商業協会員某氏の演説中、特許及商標に関する、日本人の商業道徳に付て、稍攻撃的言辞を弄したるに、接伴員グリーン領事即刻遮つて之を弁駁し、弁士をして鋒を収め、誤を正さしめたるは、頗る機宜に適したるものとして、一行之を多とし、又嘆賞せり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.188-189掲載)


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