「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月25日(土) サウスショア・カントリークラブで午餐会、電気会社、デパート、シカゴ・トリビューン等を見学 【滞米第25日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月二十五日 晴 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、食後室内ニテ、シヤトル市ノ田中領事・ホートランドノ沼野領事○沼野安太郎・桑港永井領事○永井松三ニ書状ヲ認テ郵送ス、且田中・沼野二氏ヘ為替金ヲ送付ス、十二時半ヘビヤン氏ノ案内ニテ湖岸倶楽部ニ抵ル、シカコ・ミルオーキー鉄道会社ノ催ニ係ル午飧会ニ列シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、後市加古大学ニ抵リ、校内ヲ一覧シ、校長宅ニテ茶菓ノ饗応アリ、教員ホルトン氏夫妻ト会話ス、蓋シ氏ハ日本ニ来遊セシ人ナリ、午後六時帰宿、七時晩飧シ、十時半ヨリ、頭本氏其他ノ人々ト、トレビオン新聞社ヲ一覧ス、規模宏大ニシテ、経営敏活ナリ、五十余年継続シテ営業スルト云フ、十二時過帰宿ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.155-156掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.38-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
二十五日 晴 (土曜日)
青渊先生には午前中在宿信書を認められ、十二時ヘビヤン氏の案内にて、ミシガン湖岸のサウス・シヨワー・カントリー倶楽部に抵り、シカゴ・ミルウオーキー・エンド・ピユゼツトサウンド鉄道会社の催しにかかる、午餐の饗を受く、食後卓上演説を為し、後シカゴ大学に抵り、校内を一覧の上、総長ジヤドソン博士の邸に於けるレセプシヨンに列し、嘗て日本に来遊したる教授ホルトン氏夫妻と会談し、午後六時帰宿せられたり、シカゴ大学には日本人の講師家永豊吉氏あり、日本留学生も十数名在校せり、晩餐後の青渊先生は、十時半頭本及一行中新聞事業に関係ある人々と共にトリビユーン新聞社を一覧せらる、一日の発行部数十五万、印刷機械の精巧なる、従業者の敏活なる、一見して甚だ愉快を感じたり、米国の日刊新聞は日曜日には日本の新年初刷と同様に、彩色絵入の面白き小説・滑稽・ポンチ等の欄を設けたる特別号を附録と為す、代価は平時と同一にして、売高は二倍以上なりと云ふ、同新聞社は千八百四十七年の創立にして、現在社長の祖父の創設したるものなりと云ふ、十二時帰宿。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.162掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第一節 シカゴ市
九月二十五日 (土) 晴
午前九時、一同は自働車に分乗して、「ワシントン・ブルバード」[・]ガーフヰルト公園・ダグラス公園等を経て、ハーゾーンの「ウェスターン」電気会社・アイスクン街エヂソン電気会社等を参観し、午後一時湖畔の「サウス・ショーア」田園倶楽部に着。「シカゴ・ミルヲーキー・ヒユーゼットサウント」鉄道会社の招待にて、午餐を供せらる。会社は今回大阪商船会社との連絡関係を生ぜしが故、特に一行を歓待せしものなり。席上会社副社長ハイランド氏、及商業会議所会頭スキンナー氏の熱心なる歓迎辞に次ぎ、渋沢男の答辞演説あり。午後四時より一部の人々は、シカゴ大学に立寄り、同総長ジュドソン博士・同夫人等と接見す。
婦人の部 昼間は二・三のデパートメント・ストーアを見物し、同マアシヤー・フィルドにて、茶菓を饗せられ、正午は松原領事夫人より、大学倶楽部にて饗応を受く。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.187掲載)


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