「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月17日(金) ヒビングで大鉄鉱区、ダルースで大桟橋を見学。渋沢栄一、車中で新聞記者の取材を受ける 【滞米第17日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十七日 晴 冷
午前七時起床、車中ニテ支度ヲ整ヒ、七時半朝飧ヲ食ス、八時半頃ヒビツクニ着ス、直ニ下車シテ鉄鉱ヲ見ル、スチビンソント称スル鉱ナリ、産額五十万噸余、極力産出セハ百五十万噸ヲ得ヘシト云フ、費額及利益等ノ割合ハ壱噸概算三弗ヲ要シ、クリヒランドニ於テ四弗ニ売却スレハ壱弗ノ利益アリト云フ、尋テマホニングト称スル鉄鉱ヲ一覧シ、又ハルト云フ鉄鉱ヲ見ル、共ニ前者ト同方法ノ採掘ナリ、而シテハルト云フハ一年凡三百万噸ヲ産出スト云フ、其仕掛ノ広大ナル只驚クニ堪ヘタリ、午飧後車中ニテ同行中ノ米人ヨリ一場ノ演説アリ、又セントホール新聞記者ノ訪問ニ接シテ一場ノ談話ヲ為ス、夕方ダルーズニ着シ、鉱石ヲ湖水運搬ノ船舶ニ積込ノ桟橋ヲ見ル、実ニ愕クへキ大規模ナリ、畢テ七時半ダルーズノ客舎ニ投宿ス
但夜飧後ナレハ、単ニ入浴シテ後日記ヲ編成ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.102掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.27-30

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
九月十七日 晴 (金曜日)
六時半ヒツビング市に着す、朝食を終り八時半、青渊先生を先頭に一行下車して鉄産地に向ふ。
一行はワシントン、ヲレゴンの二州に於て、驚くべき森林を見て一驚し、中西部に到りてモンタナ、ダコタの二州を通過し又驚くべき大農場地を見て二驚し、今茲にミネソタ州に入りて更に一層驚くべき大鉄鉱区を見て三驚を喫したり、米国の富強偶然にあらざるなり。
最初見たる鉄鉱地は、大北鉄道会社所属のスチブンソンと名くる鉱区なり、応袤三百六十ヱーカー、地表は丘陵起伏あれ共、何れも表土の砂石三四十呎を取除くときは、其地下百五十呎迄は六割三分と云ふ驚くべき鉄分を有する砂鉄なり、鉱区内には幾条の鉄道敷設せられ、採掘しつゝある地点に貨車を送り、一掬六噸(マヽ)のステーム・シヤベルと称する採取機に依りて貨車に掬ひ込まる、貨車は六七台にて一列車を為し、一車の積載量五十噸(即五十掬)也、而して積載し終れば之を一と先停車場に送る、此貨物列車の時々刻々縦横に走せ違ふ様如何にも壮快なり、停車場にては之を五十台乃至六十台を一列車となし、別の機関車に依りてシユーペリオル湖畔の大桟橋に送り、直に汽船に積載せらる、此鉱区一日の採掘量は一万噸にして、一噸の採鉱費は(表土取除費三十仙、採掘費平均二十五仙、スチーム・シヤベル費二十五仙)八十仙、之に会社の総掛費一弗、又鉱区よりデルース迄の運賃八十仙デルースよりクレブランド迄の輸送船賃四十仙以上、合計三弗なるがクレブランドに於て販売する一噸の価は四弗なりと云ふを以て、結局一噸に付き金一弗宛の利益なり。
次ぎにマホニング鉱区を見たり、此鉱区はスチブンソン以上の広大なるものにて、其採掘高も一層多量なりとの事なり、又ハルと称する鉱地を見る、一年産額凡三百万噸なりと云ふ、採掘の方法前者と同じ、是等の鉱地は含有量に於て多少の相違あれども大小三十五箇所ありと云ふ。
此マホニング鉄鉱は千八百九十三年に発見せられ、其他の鉱区も之と相前後して発見せられたるものなりと云ふ、斯くして採掘したる鉄鉱は、一旦汽車に依りてシユーペリオ湖畔のデルースに送られ、其処より更に水路に由りて、シカゴ、クリブランド、ピツツバーク等の地方へ輸送せらるゝなり。
十二時半汽車に戻り、車中にて午食の後、同行の米国人側委員グード氏(シカゴ大学教授)のヒツビング鉄鉱区に関する講話ありたり、其要旨は此辺一帯の地は一億年以前は海なりしが、其後漸次陸地の為めに犯されて遂に陸地に変じたるものなり、即ち上層の土地は深く海底に没し、下層の砂石が陸上に露れ出づるに至れり、其証拠にはマホニング其他の鉱区の地中に赤土を発見すべし、此赤土は即ち上層の土にして、其質は水も通ぜざる程緻密なるを以て、其上に在りし砂石は海水の減退と共に流失したるも、此赤土と此下に在る鉄鉱を含有する砂石は、半円形を為して存在せる次第なり云々、青渊先生はセントポール新聞記者の車中に来訪せるありて一場の談話を為られたり、午後四時デルース市に着し、大桟橋を見る。
此鉄鉱を積卸する大桟橋又大々的の設備にして、是亦一驚を喫したり此大桟橋はシユーペリオル湖畔に在りて大北鉄道会社に属す、長二千呎のもの三個、其上には各四条の鉄道を敷設す、鉄鉱列車此の鉄道に停止すれば、貨車の底は容易に開き、鉱石は桟鉱の穴より落下し、大なる円筒に依りて、下に待ち受け居る特殊の形を為したる汽船に注入す、此汽船の収容する量は実に一万噸にして、僅々四時間を以て積込み終ると云ふ、而して此の一桟橋の一側に一万頓の大汽船六艘を横着けに為す事を得ると云ふに至つては、実に驚愕の外無からずや。
此夜は車中に宿泊する筈なれば、急ぎ大桟橋の見物を終り、列車に帰着して夕食を済ましたるが、列車は終夜一地に停止するものなるを以て、青渊先生及令夫人には同地ホテル・スポールデングに到りて入浴を為し、再度列車に帰着して宿泊せられたり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.108-109掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.131-157

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第七節 ヒッビング
九月十七日 (金) 晴
午前六時半ヒッビング第一鉄鉱区に下車し、数町を徒歩し、採掘中のスチブンソン鉱区に向ふ。その面積約三百六十英加ありて、一年の産額千八百万噸に達すと云ふ。而も採掘作業の容易なること、実に予想以外にして、恰も土砂を掬ひ上ぐるが如し。午前十時二十分更にマホニング鉱区に至る。当区は世界第一の大鉱区なりと称し、其面積実に千百英加にして、坑深約二百呎に及べり、マホニング鉱区に隣りて、オリバア鉱業会社あり。同会社は例の有名なるロックフェラー氏の所有に属すと。二大富豪の地を隣りして、而も同一事業を経営せるは一偉観と云ふべし。午前十一時半ヒッビング市に着す。人口約一万五千人の小都市なるも、少時下車してセラース氏の鉱区を見物し、更に車内に帰りてヅルースに向ふ。午後列車進行中に於て、グード教授のヒッビング鉱山に関する講話あり。其大要左の如し。
    △ヒッビング地方の鉱山に関する グード教授講演
  ヒッビング鉄鉱区はミネソタ州の東北隅にありて、此の地方及び東南地方一帯は、一億年前には総て大海の底にして、陸地はビリング地方より北方に始まり、那威国まで続き居りしが、此陸地は種々の形となりて、追々海に流れ行き、遂に現今の如く広漠たる土地を生ぜり。即ち東北方の陸地の上層は海底に沈み、却て下層の砂石が上層となりて、新に土地を造り出せしなり。故に其上層の土砂は黄色を有し、尚ほ其上を流れし土砂は、現今の皮層にして硅石に富めり。本日午前巡覧せしマホニング近傍にては、一定の深さに達して、頗る美麗なる赤き粘土を見るべし。蓋し此粘土は、その昔上層の土地たりしなり。其粘土は水に浸さるゝことなければ、其上の土砂には如何に水分を含むとも、粘土以下に透浸する能はず。即ち其水は流れ流れて土砂を洗ひし為に、硅石は遂に皮層に露はれ出で、赤き粘土と鉄鉱とが下に残留せるに至る。斯くして鉱石は余り厚層ならねど、其形半円形にして、赤き粘土を混ぜざるもの即ち鉄鉱とす。而して今日巡覧せし地方の鉄鉱の非常に鉄分に富めるは、硅石が流れ去りし為に外ならず。二十五万年前には、此地方は一面の氷河に蓋はれ居りしが、ミゾリー河の一帯は厚き氷に蓋はれ居りて、其氷の厚さ一哩より二哩に及びしと云ふ。其氷は追々南方に流れて、土地を洗ふこと恰も鉋を以て削るが如くなりしが、南方に進むに従つて温暖なる為め、氷河は遂に北方に流れ去れり。其際南部地方には、多量に土砂を残留せり。今朝巡覧せし鉄鉱の鉄は、其際雪中に混溶し居たる遺物なりとす。此鉄鉱を開くに当り、先づ第一に要なるは、鉄鉱の上にある土砂を取去ることなり。此皮層の土砂は、凡そ一億年前のものならん、尚ほ此地方に大湖水あるは、大氷塊が土地を削り去りたるに由る。云々。
グード教授は、序にグランドフォーク地方の説明を為して曰く
  『此地方にも一帯の氷塊ありしが、追々北方に溶流して、レツドリバーの渓谷に流れ込み、遂にミスシッピー河に入り、三百余哩の長流をなせり。今の諸湖水の各広大となりしは、幾多の小流相合して泥土を持ち来り、湖底に沈澱せしによる。尚ほ氷雪は融けて土砂を積み、遂にハドソン河に流れ込むに至れり。斯くて一面の湖底にありし処は、表面に露はれて広大なる土地を造出せり。此地方より北の方、加奈陀と米国との境に至れば、湖底たりし部分凡そ七百哩あり。湖底は此点よりして、四百哩の北に発す。斯くして当地方より北に四百哩加奈陀に七百哩の間に広漠たる地方あり。既に巡視せしファーゴー地方は地下百呎の深さに達して、此土砂を含むを発見し得べし』云々。
大北鉄道会社の接伴員ヒルマン氏は、一行の為に下の如き講話をなせり。
  『此鉄鉱区は東西五哩巾半哩以上一哩なり。一行の巡覧せし、ヒッビング地方は、此鉱区の殆んど中央にありて、其周囲五哩に達し、其鉄鉱は世界中他に比類なき多量の鉄分を含有せり。而かも其採掘容易にして、一噸の採掘費用は、鉱山に於ては僅に一弗に過ぎず、此五十哩の広大なる鉄鉱区の所有者は合衆国銅鉄会社及び大北鉄道会社にして、其他にも小会社数多あり。此のマホニング鉱山は十三年前に始めて採掘に取り懸りしものにして、同年間に産出せし鉄鉱は一億六千七百万噸、千九百七年には、二千七百万噸、同八年には二千三百万噸を出せしが、本年は二千五百万噸来年は三千五百万噸を採掘の予算なりとす。斯くて年々多くの鉄を採掘せんとするは、鉄が追々高価となり行くに依る。此鉄脈を少し離れて、マツサービー、ロフエービツク、マノマニー、マーケツト、バーミリオン等の五鉄鉱あり、是等総ての鉄鉱の産出額は、千九百七年は四千三百万噸、明年は五千万噸採掘の予定なりとす。
  斯く多量の鉄鉱を産出せんとするは、全く木材の欠乏によるものにして、鉄鉱の需要益々増加せんとの予見なり。其証拠には、鉄道の枕木なども、是より東部に於て鉄製のものあり。其一本の枕木は二弗五十仙位にして、又汽車の車も鋼鉄製と為しつゝあり。現に紐育地下鉄道の車体は、殆んど全部、鋼鉄を以て造られ居れり。是を以ても、即ち鉄の需要益々多きを証明するに足らん。
  現今大北鉄道会社にて鉄鉱を出す所、湖岸に三箇所ありて、其桟橋に千七百万平方尺の材木を用ゐ居れり。然るに今回新に造る桟橋は、全部鉄製の計劃にて、尚今後は、自働車をも橋梁をも、多くは鋼鉄を以て造るに至らん。
  此の鉄鉱は始め有名なるヂエームス・ヒル氏一個人にて購入せしが、之は諸重役等に相談する暇なかりし為にして、後に至りヒル氏は購入当時の価を以て、大北鉄道会社に売渡せるに、其価は約六百万弗にして、其の広さは四千英加あり。今朝巡視せしマホニング鉄鉱は、其の四分の一にして約千英加あり。(但し税吏の調査に依る。)此一千英加の鉱区は、八千二百万噸の鉄鉱を含めり、即ち最少額一噸一弗とするも、八千二百万弗の値ある訳なり。而して採掘年限は、今後尚ほ四十年を継続し得べしとなり。尚ほ大北鉄道会社は、鉄鉱にて多大の利益あるのみならず、鉄鉱一噸に付き八十仙づゝの運賃を要求し居れば、一日の産額四万噸として、其利益の莫大なるを知るに足るべし、而して大北鉄道の株主は、何人にても此の工事の財産権を有す。尚同会社は鉄鉱の為めに日日千乃至千二百の列車を動かし、一汽鑵車は能く七十の貨車を運び、一列車は良く三千噸を運ぶ。其七割四分乃至八割三分を以て運賃を計算するなり。現今同会社の所有線路は、総て一万哩に達せり。蓋しジエームス・ヒル氏は、極めて人格高き人にして、心服するもの頗る多し』と
斯くてヒル氏の功徳を聴くを得しが、此日恰も同氏の七十二回の誕辰に相当せるに因り、渋沢団長より祝電を発す
午後五時過ぎ、列車はヅルース市の一端なる鉱鉄船渠に着し、今朝巡覧せし鉱区より、此処に運ばれたる鉄鉱の、更に鉄船に積み込まるゝ状況を視察す。其の桟橋は三筋に分れ、各二千二百四十四呎ありて、其桟橋にある流樋は、総数千〇五あり。真に偉観と云ふべし。
     第八節 ヒッビング市概況 ○後掲ニツキ略ス
     第九節 ヅルース市
午後六時ヅルース停車場に着く、当夜は何等の催もなきにより、各自随意行動を執る、即ち一部の人々はスポルヂング・ホテルに投宿し、他は皆列車内に眠れり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.117-119掲載)


参考リンク