「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月16日(木) ファーゴ、グランドフォークスで農業視察。市民の歓迎に感激 【滞米第16日】

「グランドフホークス商業倶楽部」徽章

 「グランドフホークス商業倶楽部」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十六日 晴 冷
午前七時起床、車中ニテ支度ヲ整ヘ、八時朝飧ヲ食ス、九時頃ハルゴニ抵リ、地方人士ノ案内ニテ、合衆国政府及州政府合力ニテ設置セル大学及農事試験場ヲ一覧ス、十一時汽車ニ帰リ午飧シ、午後二時半グラントホークニ抵リ、歓迎員ノ案内ニテ、自働車ニテ地方ノ農場ヲ一覧シ、収(穫)ノ実況ヲ見ル、又農学校ヲ一覧シ、商業倶楽部ニ抵リ茶菓ノ饗応アリ、歓迎委員長ノ挨拶ニ対シテ一場ノ答詞ヲ述フ、此日市中遊覧中、学校児童男女数百名ノ唱歌歓迎ハ尤モ一行ヲ感セシム、午後六時半汽車ニ帰リ終夜進行ス、夜飧後接伴員ギルマン氏ト談話ス、翌暁六時過汽車ヒビツクニ到着ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.102掲載)


竜門雑誌』 第265号 (1910.06) p.49-58

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
九月十六日 晴 (木曜日)
午前七時四十五分フアーゴーに着す、列車内にて朝食を終り、八時四十五分州立農学校及同農事試験場を一覧す、各種の牛馬豚鶏より樹木土壌等に就き教授より詳細の説明を受け、畢りて地方人士に依りてメソヂスト・クラブに於て催ふされたる歓迎式に臨む、途中路傍農学校学生・小学校男女生徒及市内の老幼男女数百名、列を為して一行を歓迎す、依て一行は自動車を停止し、神田男爵一行を代表して車上に起ちて英語演説を為す、フアーゴーは和訳の「遥か行く」なり、一行は前途遼遠尚遥かに行かねばならぬ、少年諸君と永く談話を為す時間を有せざるは甚だ遺憾とする処なりと局を結び、別れてクラブに着すれば歓迎員既に在りて一行を迎ふ、司会者の歓迎の辞に次いて青渊先生答辞を述べられ、夫れより茶菓の饗を受けて、十二時自動車に送られて列車に戻り、グランドフオーク市に向て出発す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.107-108掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.27-30

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
九月十六日の午後
汽車中にて午餐を為す、十二時半頃某停車場よりグランド・フオーク市商業会議所代表者乗り込みて行々同地に於ける歓迎の順序を青渊先生に語る、午後二時三十分同市に着す、直に自動車にて歓迎委員と共に先づ市中を見物し、夫れより広袤涯り無き大農場に到り、玉蜀黍の截断機・貯蔵庫(此貯蔵庫は其之れを収穫したる当時の滋養分を、其儘翌年の収穫期迄保存すると云ふ)を見、尚農学校・競馬場・精麦所を見、畢りて公園に到り倶楽部に於て茶菓の餐を受けたり、青渊先生は市長の歓迎の辞に対し、一行を代表して鄭重なる謝辞を述べられ、再度自動車に分乗して午後五時列車に帰着す、見送れるもの老幼男女数百、併かも少しも雑踏の状無く整粛たりしには一同敬服したり、六時半発車。
米国にては、州の法律を以て某州内にて煙草又はアルコール性飲料の販売を禁止せるを見受けたるが、グランド・フオークも、其州の法律に依り苟もアルコール性を含有する飲料を販売する商店皆無なり、其整粛たりしも此故ならんと思はる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.108掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.131-157

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第五節 ファーゴー及グランド・フォーク
九月十六日 (木) 晴
午前七時四十五分、ファーゴー市に着。九時五分、一同自動車に分乗して、当地州立農科大学に向ふ。(約一哩半を隔つ)先づ同大学敷地内を巡覧するに、途上新築中の家政学校教室あり、主として農家の士女に家政学を教授する方針なりと云ふ。同大学敷地は約一哩四方あり、飼養せる牛羊には逸物多く、就中生れて僅かに二年を経たる壮牛は、当州展覧会に於て一等賞を得たりと云ふ。それより市中を巡見せるに、中学校前に男女の生徒整列して一行を歓迎す。神田男即ち之に対して一場の演説を為せしに、大に歓呼喝采を博せり。
午前十時五十分メソニック・テンプルを訪ひ、一同階上の大広間に着席す。商業倶楽部長・大学総長・副知事・市長等列席し歓迎式あり。商業倶楽部長の紹介にて、大学総長ウースト氏歓迎の辞を述べ渋沢男之に応ふ。時に当地在住の一青年今井某(京都人)なる者あり、流暢なる英語を以つて歓迎の辞、及び日米国交につきて所見を述ぶ。同人は、米国中学校卒業生にして、当市唯一の同胞なりと云ふ。十一時五十分同処を辞して、直ちに列車に帰り、グランド・フォークに向ふ。時に十二時十分。
午後二時半、グランド・フォークに着、直に出迎の自動車に分乗し先づ市内の重立ちたる所を巡覧す。途々各商店を見るに、殆んど職業を抛ちて、日章旗を軒頭に掲げ、若くは街道を横ぎつて掲ぐる等頗る歓迎の意を尽せり。先づベーコン氏の農場に赴きて、玉蜀黍より家畜の食料を製出せる作業(サイロ)を見、次にファーゴー市と隔年に開かるゝと云ふ勧業共進会場を見、更に渺茫たる麦隴の内にスラッシヤ作業を見る。此辺は米国唯一の大農場にして、南北三百五十哩、東四五十哩ありと云ふ。斯くて農場を馳せ廻ぐること約十五哩余、午後四時過ぎ、リンコルン公園内の田園倶楽部に入り、屋内に茶菓の饗応を受け、庭園に臨める廊下にて略式歓迎会あり、此際、商業倶楽部会頭ドクトル・テイロル氏の歓迎の辞あり、渋沢男は一応の答辞の後、『前車の轍を踏まずとは東洋の警語なれど、予等は大いに前車の轍を踏みて当地の農業に倣ふ処あらんとす。但し日本は土地小にして、到底大農法を学ぶ能はずと雖も、而かも智力を用ふる農業に於ては、或は貴地に勝れんも測られず。』云々と述ぶ。
次に大学新校長マクコイ氏歓迎の辞を述ぶ。之れに対しては神田男の答辞あり。後互に万歳を祝し合ひ、再び列車に帰る。時に士女の停車場に見送り来るもの多く、宛然十年の旧知の如し。夜に入りヒッピングに向ふ。
要するに当地方は日本人の周遊するもの珍らしき為にや、到る処の市民の歓迎に、其真情の溢るゝばかりなるを見る。
先にシアトルにて、一行と会せし中橋氏・村田随行員は、此日又本団と別れて、直ちに帰朝の途に着けり。
婦人の部 午後キャンベル夫人宅に茶菓の饗応を受く。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.116-117掲載)


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