「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月13日(月) オークスデールで広大な麦畑を、ポトラッチで製材会社を見学 【滞米第13日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十三日 晴 冷
午前七時半起床、車中ニテ支度ヲ整ヘ、朝飧後汽車進行ヲ始メ、一農場ニ抵リテ小麦収(穫)ノ実況ヲ見ル、十二時ホツタラツチニ着ス、製材会社ノ主任者迎ヘテ市内ニ抵リ、一会堂ニ於テ午飧ス、食卓上主人ノ歓迎辞ニ対シテ答辞ヲ述ヘ、食後製材工場ヲ一覧ス、百事整頓シテ規模広大ナリ、畢テ汽車ニテスポケンニ帰着シテ汽車中ニ宿ス、夜ローマン氏夫人ノ同行ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス、又常議員会ヲ車中ニ開キテ種々ノ報告ヲ為ス、翌朝ヨリ汽車アナコンダニ向テ進行ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.101掲載)


竜門雑誌』 第265号 (1910.06) p.49-58

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
九月十三日 晴 (月曜日)
午前八時ポトラツチに向て発車し、途中広大なる農場に到り、小麦収穫の実況を見、十二時ポトラツチに着す、製材会社々長の案内にて市内に抵り、一会堂に於て同社の饗に係る略式午餐を受け、食堂社長の歓迎辞に対して青渊先生答辞を述べられ、後工場を一覧す、畢て汽車に戻りスポケーンに帰着し、其儘同停車場に停留して翌日を迎ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.107掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.131-157

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第一節 ポットラッチ
九月十三日 (月) 晴
今朝午前七時半、スポケーン市を発し、アイダホ州ポットラッチに向ふ。途中華州内オークスデールに停車し、一同下車して麦畑中に「スラッシ・マシーン」の運転せるを見る。此辺はエリバア氏の所有地にして、一日の産出高優に千五百俵(百斤俵)に上ぼると云ふ。十二時半ポットラッチ駅に着、一同は直ちにポットラッチ製材会社の特設会館階上に案内せられ、略式接見会の後、手軽なる中餐の饗応を受く。席上同社副支配人レールド氏の歓迎辞あり。(総支配人ターソー氏は、他行中なりし故)渋沢男之に答ふ。中食後階下のデパートメント・ストーアを見物す。此建築は当会社の特設会館にして、中餐を饗せられたる階上の広間は、同会社雇人等に対する各種の娯楽場にも使用さるゝものなり。(階下にはデパートメント・ストアの外、郵便局・銀行等あり)後数町を隔てたる同製材会社工場に向ふ。当会社は資本金約七百万弗にして、一日の製材高は七十万立方呎に達し、伐材及工場等一切に使用する人員千二百人の多きに上れり。尚ほ当地に至る鉄道支線数十哩は、同会社の私設にして、採伐区域の如きも、四十哩四方の広大なる土地を有すと云ふ。午後六時ポットラッチを発して、午後十時頃、再びスポケーン市に立寄り、停車数十分にして、アナコンダに向ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.114-115掲載)


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