「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月14日(火) アナコンダで銅鉱精煉所、ワショー公園で養魚、ビュートで銅鉱採掘を見学 【滞米第14日】

「ビュート実業家同盟団体」徽章

 「ビュート実業家同盟団体」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十四日 晴 冷
午前七時頃ヨリ汽車進行シテ、十時頃モンタナ州ナルアナコンダ精煉所ニ抵リ、工場ヲ一覧ス、規模宏大ニシテ機械整頓セリ、畢テ汽車ニテビーテニ抵リ、鉱山採掘ノ実況ヲ一覧ス、蓋シビーテハ銅ノ原鉱ヲ出シ、アナコンダハ之ヲ精煉スル所ナリ、一覧畢テ其地ノ商業倶楽部ニ於テ地方人ノ催セル歓迎会ニ出席シ、食卓上一場ノ答辞ヲ述ヘ、宴畢テ亦汽車ニ帰リ、夜半頃ヨリ進行ヲ始ム
田中シヤトル領事ハ、此地ニテ一行ト離レテ任地ニ帰ル
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.101-102掲載)


竜門雑誌』 第265号 (1910.06) p.49-58

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
九月十四日 晴 (火曜日)
午前六時アナコンダに向て発車す、八時半着す、出迎の電車に乗じてアナコンダ銅鉱精煉所に至り、工場内作業の実況を見る、規模の宏大にして機械の整頓せる驚く許りなり、畢て汽車に戻り午餐の後、再度出でゝワシヨー公園に到り州立養魚場を見て汽車に帰る、午後二時十分アナコンダを発車して、三時十分ビユーテ市に着し、特別電車に乗じてレノード鉱山に到り、銅鉱採掘の実況を一覧す、蓋しビユーテは銅鉱を出し、アナコンダは之を精煉する処なり、一覧してシルバー倶楽部に於て同地人士の催に係る歓迎晩餐会に臨み、司会者の歓迎辞に次きて青渊先生答辞を述べられ、十時半汽車に帰り、十一時十分フアーゴーに向て発車す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.107掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.131-157

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第二節 アナコンダ
九月十四日 (火) 晴
午前八時半、アナコンダ着。市長ガングナー・副知事マシュソン、及商業会議所接待員等の出迎を受け、直に特別電車にて、銅鉱精煉所に向ふ。当会社製銅の量は、優に米国産銅の五分の一に位すと云へば、其広大盛況以て察するに足る。因に鉱毒問題は、当精煉所の如きも多年苦慮する処にして、現に数年前、近郊の住民より、鉱毒損害賠償問題起り、爾来硫黄の混じたる悪瓦斯は、総べて大煙突を通じて空中に放散する仕掛と為せり、其煙突の大なる真に米国第一なりとす。帰途煉瓦製造所及び同郡の養魚場を見物し、終りて列車に帰り、二時同処を発してビュートに向ふ。
    第三節 ビュート
午後三時十分、ビュート停車場に着、ビュート実業家協会々長ヴロフィー氏・市長ネビンス氏、其他諸氏の出迎を受く、一同は特別仕立の電車に迎へられ、先づ附近の風景を眺め、後有名なるレオナード・マイン、即ち大銅坑を参観し、特に希望者はエレベーターにて地下数千呎に降り、坑内通風喞筒作業等を見るを得たり。夜はシルバア・ボー(銀弓)倶楽部に於て晩餐会あり、午後十一時ファーゴーに向て発す。
シヤトル領事田中都吉氏は、シヤトルよりタコマまで同行せられしが、一時任地に帰り、スポケーンにて再び一行に加はり、当ビュートにて遂に一行に別る。
婦人の部 午後銅山見物の後、市立工業学校を参観し、プローフィー夫人宅に茶菓を饗せられ、夜は銀弓倶楽部の晩餐会に列す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.115掲載)


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