「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月10日(金) ウィラメット川を蒸気船で下りポートランド製粉会社、クラーク・アンド・ウィルソン製材会社等を巡覧。汽車に乗り換えてスポーケンへ 【滞米第10日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十日 雨 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、食後河ニ沿フタル製材所ヲ一覧ス、夫ヨリ河ヲ下リテバンクーバニ抵ル、途中小麦製粉所ヲ見ルオールコツク氏ノ経営ニ係ル、此日ハ蒸気船ニテ午飧シ、河ヲ下リテハンクーバニ着ス、此地陸軍ノ兵営アルヲ以テ、将軍某氏ハ一行ノ為メニ練兵ノ式ヲ行ヒ、且士官集会ノ倶楽部ニ於テ小宴ヲ開キテ一行ヲ饗ス、畢テ午後五時頃ヨリ汽車ハンクーバヲ発シテスホケンニ向フ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.101掲載)


竜門雑誌』 第265号 (1910.06) p.49-58

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
九月十日 雨 (金曜日)
午前九時青渊先生を始め一行はホテルを辞して、商業会議所に於て用意したる河蒸気船に搭乗して、ウヰラメツト河に舟遊を試む、沿岸のポートランド製粉会社及びウヰルソン・クラーク製材会社を巡覧し、流に沿ふてコロンビア河に到り、船中に於て午餐の饗を受け、午後二時バンクーバーに着、上陸して此地に駐在せる陸軍少将モース氏の率ゆる歩兵・工兵・山砲兵及衛生隊の分列式を参観し、畢りて同兵営将校集会処に於て同少将の催にかゝるレセプシヨンに臨み、午後五時馬車に乗じて停車場に赴き、列車に乗り込みたり。
此日車中にて紐育総領事館発の左の電報を接手し一同万歳を三唱す。
 久邇宮殿下には今七日御安着、一行皆無事。
○中略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.106掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.101-129

 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
     第五節 ポートランド
九月十日 (金) 曇 小雨
午前八時半一同自動車に分乗して、アッシュ街埠頭に着、九時「オレゴン鉄道及ネビゲーション」会社の好意にて提供されたる、ティー・ジェー・ポッター号に乗込み、ウィラメッテ河(コロンビヤ河の支流)を下り、航走三十分計にして、右岸なるウィルコックス氏の製粉場に着、一同上陸して二十五分計り参観す。同製粉会社はウィルコックス氏の所有なるが、氏は当州にて有名なる財産家にして尚他に二十余個所の工場を有し、東洋に麦粉を輸出すること、太平洋沿岸第一位にありと云ふ。再び川を下りて、午前十一時頃左岸なるクラーク・ウィルソン製材会社を見る。十二時頃船に帰り、ポ市商業会議所より贈れる食事、並に在留日本人商業組合より贈られたる寿司・折詰等にて午餐を喫す。食後喫煙室にて、沼野領事よりオレゴン事情の説明あり。(別記
一行を乗せたるポッター号は、ヴァンクーバー市を後にして上ること数哩、左側にヲッシュードなる小村あり。盛に丸石を採掘せるを見る。コロンビヤ河口の波堤に用ふるものなりと云ふ。
午後三時華盛頓州のヴァンクーバー(加奈太領と同名異地、米大陸に此例多し、混ず可からず)に上陸、直に出迎ひの馬車にて、ヴァンクーバー兵営に向ふ。行くこと一哩余、左側に練兵場及び兵営あり。司令官はマウス少将にして、歩騎砲工の四隊あり、兵員約千四百名、其の管轄は(ワシントン・オレゴン・アイダホの三州に亘る)三時二十分マウス少将の各兵科閲兵及分列式あり。終つて将校倶楽部に茶菓の饗応を受く。各将校及び夫人の叮重なる接待、及び二音楽隊の勇ましき奏楽などあり。互に万歳を唱へて此処を辞し、午後四時半ヴァンクーバー停車場に至り、茲にポ市より見送られたる沼野領事・同夫人・秋州書記生・下村日本人会長、其他諸氏と別れ、特別列車にてスポケーン市に向ふ。薄暮コロンビヤ河の沿岸を通過するに、雨後の山水嘆賞に価するもの多く、又処々に仕掛たる鮭捕器械の如きは、昨日森林館内にて模型を見たる物なれば、殊に一行の感興を惹けり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.112-113掲載)