「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月6日(月) 早朝にタコマへ移動。水力発電所見学、レーニア山国立公園へ 【滞米第6日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月六日 晴 冷
午前六時頃ヨリ汽車進行ヲ始メ、七時半タコマニ抵ル、八時支度ヲ整ヒ、汽車中ノ寝室ヲ出テ汽車中二テ朝飧ス、汽車タコマヲ過キ森林中ノ停車場ニ抵ル、是ヨリ先キ水力電気工場ヲ一覧ス、弐万八千馬力ヲ得ルト云フ、一覧畢テ更ニ森林中ヲ進行シ、レニヤ山行ノ小汽車ニ乗替ヘ山中ノ氷塊一覧ノ筈ナリシモ、兼子昨日ヨリ少シク所労ナルヲ以テ、氷塊一覧ノ事ヲ見合ハセ停車場ニ休憩ス、夜食後車中ニテ、山林伐木ノ事ニ関シ種々ノ質問ヲ為ス、此夜汽車中ニ於テ就寝、此夜ハ一行多ク氷塊一覧ノ為メニ山中ニ行キタルニヨリ、汽車中僅ニ数人ヲ止ムルノミニテ、頗ル寂然タリキ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.99-100掲載)


竜門雑誌』 第265号 (1910.06) p.49-58

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
九月六日 晴 (月曜日)
一行は米国人側委員と共に五日の夜より特別列車の人となり、午前六時ノーザーン・パシフイツク鉄道を進行し始めたり、七時半タコマ市に到着したるが、茲に下車せずして汽車中始めての朝餐を済まし、再度進行を始め、九時十五分カポウシンに着、水力電気工場二万八千馬力を一覧し、森林中を進行して一時半アツシユフオードに着、車中午食を済まし、是れより一行は馬車に乗換へ、レニヤ山のニスクオリー氷山を見て、八時国立公園の旅店に到り同処に一泊したるが、青渊先生には令夫人前日来少敷不快なりし為め是を見合はせ、森林中の一停車場に停車せる車中に就寝せられたり、此夜車中残留は青渊先生・同令夫人・頭本氏・堀越氏・同令夫人及小生等数人に止まり頗る寂然たりき。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.104-105掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.101-129

 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
     第三節 タコマ市
九月六日 (月) 晴
午前七時タコマ市着、此所に出迎のタコマ商業会議所会頭グリツグ氏、其他数名の接伴委員等一行と共に列車に便乗し、直に支線に入り、更に無蓋貨車に転乗して、カアボシンの水力発電所を見、午後二時アッシュフォードに着し、馬車に分乗しタコマ山の中腹ナショナル・パークに立寄る。レニヤ山は華州中最高の山にして、海抜一万四千五百二十八呎、我富士山より高きこと約二千呎、死火山にして、其形我富士山に似たるが故に、邦人は之れを称してタコマ富士と云ふ。而してタコマ市民は、此のレニヤ山を呼んで又タコマ山と云ふ。更に馬車にて有名なるニスクオリー・グレシヤと云ふ氷河に達す。此のグレシヤの氷壁は高さ百五十呎、広さ二百呎、其源は猶五哩を隔つるジブラルタル・ロツクの脚下にあり。其最も広き部分は幅約一哩あり、気候暖き日、氷河の流るゝ速力は、二十四時間に十八吋なりと云ふ。
千古不滅の大氷塊は、宛然丘陵の如きものあり、皆其偉観を嘆賞せざる無く、夜はナショナル・パーク・インに泊す、皆タコマ市接待委員等の好意による。夕食後神田男の氷河の講話あり。但し団長以下五六の者は、此夜列車中に留る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.110-111掲載)


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