「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月2日(木) 消防署見学の後、シアトル領事邸で園遊会。夜は日米合同打ち合わせ 【滞米第2日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月二日 半晴 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ旅館ノ集会室ニ赴キ、本日取扱フヘキ公務及招待ニ関スル事ヲ処理ス、此地到着以来諸方ヨリ報知アリシ祝電ノ事、及当地諸向ヨリノ案内状ニ対シ回答書ヲ発スル事ヲ頭本・堀越諸氏ト談ス
幹部ノ事務不整頓ニ付、水野総領事ノ注意ニヨリ中野氏ト協議シ、事務員二名ヲ雇傭ス、其一ハ外国人ナリ、午前八時朝飧ヲ食ス、午後一時昼飧シ、後防火ノ手配ヲ一覧セシムルトテ、ローマン、ブレーン、バークノ諸氏ヨリ一行ヲ案内セラレ、自働車ニテ其元営ニ抵ル、消防隊長ヨリ詳細ノ説明アリ、後実地ノ演習ヲ見ル、其迅速ニシテ水力ノ強盛ナル、実ニ一覧ノ価値アリト云フヘシ、二十三ケ所ニテ其経費年額五十万弗ニ近シト云フ、一覧畢リテ一行自働車ニテ田中領事ノ宅ヲ訪問ス、其庭中ニテ茶菓ノ饗アリ、五時過旅館ニ帰リ庶務ヲ弁理ス、七時ブレン氏ノ案内ニテ旅館ニテ晩飧ス、水野総領事同伴ス、八時当地ノ商業会議所ニ抵リ米国側ノ人々ト会同シテ、通商ニ関スル打合ヲ為ス、米国側ノ人々ヨリ種々ノ意見ヲ述ヘラル、最後ニ一場ノ意見ヲ演説シテ、将来調査ノ方法ヲ定ム、夜十一時帰館就寝ス
 (欄外)
此日午前市役所ニ抵リ、市長ミラー氏ニ会見シテ昨日ノ謝詞ヲ述フ又商業会議所ニ抵リ事務員ニ会見ス、又領事館ヲ訪問ス、但ローマン氏、田中領事同伴、中野氏ト同行ナリ、十二時頃帰館ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.83-84掲載)


竜門雑誌』 第264号 (1910.05) p.41-46

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
九月二日 木曜日(シヤトル市第二日)
青渊先生には渡米実業団を引率して、昨一日スミスコープ埠頭に到着し、歓迎式を始め米人との応待、又は団員会議等にて終日殆ど忙殺され、息を付かるゝ暇もなく、夜七時よりは予て待設けられたる織田事務官主催の日本晩餐会に列席せられたるが、同令夫人も同様其夜は一行の夫人及水野・田中両領事夫人と共に織田氏の招待にて華州日本人会長高橋轍夫氏邸に至り、純日本式料理の饗を受けられ、斯くして上陸後の第一日を終りて茲に第二日とはなれり
此日は天気快晴にして炎暑甚し、午前中は一行の休憩時間に当てられたるも、青渊先生は米人並に在留邦人の来訪、又は一行向後の旅行に関する打合会等にて、殆ど休憩の遑もなかりし
午後二時先生始め一行は、ワシントン・ホテル前面に廻はされたる十二台の自働車に分乗して、北第四街の第四消防分署に到り、判事バークス氏の紹介に分署長は一行を階上に案内し、消防夫寝室・休憩処等を詳細に説明し、更に階下に導きて馬匹・蒸汽喞筒・消防用梯子等の説明を為したり、後一行は向側なる人道に併列して消防夫の出師準備を観る、突然半鐘の乱打さるゝや今迄階上寝室に横はりたる消防夫は武装して径二寸程の真鍮の棒を伝はりて階上より下れば、馬は既に自ら闥を排して附属軍轅の己れの位置に在りて命を待つ、即急遽準備は整ひられて、各車四頭乃至六頭の馬に鞭ちて疾駆し出づ、此間僅かに一分時、軈て二分時を過ぎて帰来したるが、之を原形に復するに要したる時刻又一分、其動作の敏活なる看る者只呆然たるのみ、彼の馬の如何に克く馴致せられ居る哉に至ては、実に驚感の至にて、成程日本の馬が馬に似たる猛獣と評せらるゝも止むを得ざる事なりと感ぜられたり、一行は茲処を辞して、再び自働車に分乗してワシントン・ホテル前面に一列を作る、間も無く消防隊長の率ゆる消防の一隊ガランガランと車上に響く警鐘を鳴らしつゝ、十数台の蒸汽喞筒・梯子等前後左右より疾走し来り同ホテルを火元と仮定して消防演習を為す、見る間に梯子は高く十階の窓口に架せられ、水管は口を揃ひて高く中空に水を迸出す、其間に処する消防夫の手練動作は敏活軽速にして殆ど筆舌に尽す処にあらす、三時半此演習全く終りたれは、一行は更に自動車に乗りてシヤトル領事田中都吉氏の私邸に設けられたるレセプシヨンに赴く、後庭木立の芝生にて主人の心込めたる和洋折衷の料理に、一同歓を尽して散会したるは五時頃、直にホテルに帰還す
午後七時より、一行の内青渊先生令夫人を始め夫人一同は、トリート夫人の招待にて同氏邸に於て晩餐の饗を受けられたり、青渊先生は一行の委員と共にシヤトル商業会議所に到り、明日より開始せらるゝ当地の正式歓迎に就き米国側委員と打合会を開かれたり
此夜一行の接伴役として、米国国務省を代表したる哈爾賓駐在領事ロージヤー・グリーン氏華盛頓政府より到着したり、同氏は日本贔負にて有名なる東京在住のグリーン氏の令息にて、日本に在る同国領事館に書記官として数年在勤し、日本語を克く解したれば、一行は少からぬ利益を蒙りたり
一行の内中橋徳五郎氏(一行に先ちて渡米したる)は昨日より、又紫藤章氏(一行より一便船後れたる)は本日より一行に参加したれば、是にて一行の編成完備せり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.87-88掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.87-97

 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
     第一節 シヤトル市
九月二日 (木) 晴
先発の中橋徳五郎・村田省蔵二氏此日より団に加はり、全団茲に完成す。午後二時消防分署に赴きて消防の機動演習を見、更にホテル前に防火演習を見る。其間約十五分間、全く交通を停止せるは、少からぬ好意と云ふべし。後一同田中領事邸の小園遊会に招かる。此日午後四時大谷・巌谷二氏は、当地在留日本人青年会の依頼に応じ救世軍会館に演説を為す。
午後七時より、商業会議所に於て、我が団員並に米国接伴員との間に打合会あり。太平洋沿岸聯合商業会議所会頭ゼー・デー・ローマン氏座長席に着き、打合会の主旨を述べ、団長渋沢男は一応の謝辞挨拶を為し、神田男起て『我が団の日本出発前に当り、太平洋沿岸聯合商業会議所よりの希望に依り、我が団に属する各種専門家は各自攻究する業務、即ち銀行・金融・交通機関・教育・株式取引所・貿易・新聞経営、其他商工農に関する各種調査をなすに便宜なる様其部署を分ち、我が一行の東道主人たる、貴国商業会議所代表者、及び特に米国政府より派遣せられたる諸氏等の教導の下に、充分視察研究を為して、貴国訪問の実益を上げん事』の希望を述べ、各地商業会議所代表者、並に政府よりの派遣員は、ローマン座長の紹介により、順次起立簡単なる挨拶をなし、研究の項目に就ては、別に既定の成案なきも、一行の各所属商業会議所域内に来る時は、他の関係者と共力して東道の主人となり、出来得る限りの便宜と満足を与へんことを述べ、後各自懇談をなし、十一時散会す。
婦人の部 午後七時半トリート夫人邸に於ける晩餐会に招かる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.90掲載)


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