「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1910(明治43)年4月11日(月) 渡米実業団第1回記念会〔3〕 - 渋沢栄一は名古屋婦人会の渡米団歓迎会で講演、寄宿後『渡米実業団誌』原稿の校閲

渋沢栄一 日記 1910(明治43)年 (渋沢子爵家所蔵)

四月十一日 曇 軽暖
午前七時起床、入浴シ畢テ新聞紙ヲ一読ス、朝来中津人数名来リテ明日同地ニ赴ク事ヲ談ス、八時朝飧ヲ食シ、九時ヨリ大曾根町徳川侯爵邸ニ抵リ、其家宝ノ陳列ヲ一覧ス、藩祖又ハ東照公ノ甲胄及ヒ種々ノ武器アリ、又古書籍茶器等ニ頗ル名品アリ、絵画類ニモ名筆多カリキ一覧畢リテ第一銀行支店ニ抵リ店員ニ訓示シ、又三重紡績会社営業所ニ抵リ、同シク店員ニ一場ノ訓諭ヲ為ス、十二時旅亭ニテ午飧シ、午後一時ヨリ神野金之助氏邸ノ園遊会ニ抵ル、庭園・家屋悉ク新構造ニシテ美麗ナリ、種々ノ饗応アリ、余興トシテ能狂言アリ、畢テ伊藤氏ノ呉服店ニ抵ル、米国式ノデパルトメントストアニテ設備又盛大ナリ三階上ノ一室ニテ名古屋婦人会ノ集会アリテ、一場ノ講演ヲ乞ハレシニヨリ、婦人ニ対スル感想ノ一班ヲ演説ス、畢テ旅亭ニ帰リ、晩餐後実業団誌ヲ一読シテ字句ノ修正ニ勉ム
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.462掲載)


竜門雑誌』 第263号 (1910.04) p.75-78

    ○渡米実業団第一回紀念会
△四月十一日(月曜日)
午前十時徳川邸に到り美術品を拝観す、天下無類の珍品幾百種、げに拝観人堵の如く、室内立錐の地なし、同家々令某君は特に青渊先生の為に案内の労を執り、先導と為りて一々詳細に説明せられ、徳川侯爵又出でゝ先生の為めに手つから器物を取りて丁寧に示されたれば、先生は深く其厚意を陳謝したり、拝観を終りて後第一銀行支店に到り、支配人以下一同に一場の訓諭を為し、夫れより三重紡績会社営業所を訪ふて、伊藤・斎藤両氏と会談し十二時帰宿せらる、令夫人・令嬢は徳川侯爵邸より別れ、伊藤守松・上遠野令嬢の案内にて熱田神社に詣で、又同時刻に帰宿せられたり、午餐の後神野金之君邸に於ける園遊会に臨む、到れば既に会酣なり、芝生に赤毛布を敷き団坐して献酬するもあり、或は茲処彼処に三々五々談笑するもあり、紅裙其の間を斡旋して中々賑へり、やがて能狂言は室内に於て開始せられ、一同歓を尽したり、神野邸を辞し夫れより伊藤呉服店階上かれは倶楽部に於ける名古屋婦人会の渡米団歓迎会に出席せらる、婦人会員及委員の到着を待ちて、先づ店主守松君は種野婦人会幹事を渋沢男に紹介し、次で男は夫人・令嬢及神田夫人を一同に紹介して、概要左の演説を試みられたり
  由来実業家と婦人との位置は克く其の境遇を同ふし、何れも社界より重要視せられざりし、古来我国の歴史を見るに、婦人界にも名媛才姫決して其人に乏しからさりしも、時代が時代丈けに、武人のみ重視せられ、婦人及商人は尤も社会から軽視されて居つたもので、特に商は士農工商と云はれて社会の下級に置かれたりき、然かるに時勢一転、明治時代となり世界と交際を結ぶことゝなるや、国家は武人のみにては富強を期すべからざることゝなり、実業家の位置も認めらるゝに至りしと同時に、他面にては婦人の位地も向上し来り初めて国家を組織する車の双輪備はるの感あるに至れり、昨年渡米実業団に加はり、親しく彼地の婦人の状態を見るに、知識と云ひ、交際の伎能と云ひ、彼地婦人の今日ある偶然に非ざるを知るを得たり、固より我国の婦人にも温良貞淑柔順等の美徳ありと雖も、今日の時勢は是等以上に多くの資性を要求しつゝある事を忘却せざらん事を希望す、今日此会に臨み当地の淑女の方々に面会したるは、余の最も喜ぶ所なると共に、諸氏が時々刻々、修学の念を怠らず智徳を研磨せられんことを深く希望して置きます云々
右終りて午後七時半帰宿、夕餉の後は東京より持参の渡米実業団諸原稿の校閲を為す
此日中津より野呂駿三・間由吉外五君、青渊先生出迎の為め来着す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.464掲載)