「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1910(明治43)年1月22日(土) 東京高等商業学校職員並同窓会主催帰朝歓迎晩餐会

渋沢栄一 日記 1910(明治43)年 (渋沢子爵家所蔵)

一月二十二日 曇 寒
[前略] 五時ヨリ上野精養軒ニ於テ晩餐会ヲ開カル、同窓会員多ク来集ス、食堂ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス、夜十時散宴帰宿ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.421掲載)


東京高等商業学校同窓会会誌』 第68号 (1910.02)

    ○渋沢・神田両男爵帰朝歓迎会記事
一月二十二日(土曜)午後六時より、上野精養軒に於て渋沢・神田両男爵帰朝歓迎会の開催ありしが、当日は正賓なる右の両男爵並に母校職員及同窓会員等七十余名の出席者ありて、頗る盛会なりき、先づ当日の出席者氏名を挙ぐれば左の如し
○中略
右にて発起人側の挨拶は終りを告げたれば、渋沢男満場拍手の間に立ちて、大要左の如く述べられたり。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.421掲載)


竜門雑誌』 第262号 (1910.03) p.23-24

    ○今後の商業家
                      青渊先生
  本篇は東京高等商業学校の歓迎会席上に於て、青渊先生が渡米所感の一端を述べて謝辞に代へたるものなり
満場の諸君、私は先刻学校の講堂に於て申した事を、再び爰で繰り返へすので御座いますが、其れは外でもありません、昨年の六月二十一日は、実に涙を含んでの会見でございました。然るに今夕は夫れに引きかへ笑顔を以て皆さんに御目に掛ることを得まして、御互に誠に悦ばしい次第に存じます。私が昨年米国に向つて出発致した頃までは、学校は此のさき如何成り行くものにや、或は門前雀羅を張るに至りはせぬかなどと、第一に学校の存在が疑はれて実に掛念に堪へませんでした。然るに今日では、校長にも実に良校長を得まして、全く本に復するを得ましたのは、返す返すも悦ばしい次第で御座います。
然るに学校の問題として、今回私が彼の地で感じました点を、一二申上げて見ますれば、今日の商業家は、第一に語学が頗る必要だと信じます。此の点は現に私が彼の地の言葉に通じませんが為めに、自ら大に不便と苦痛とを感じましたから、今回痛切に言葉の必要なる事を感じた次第で御座います。第二には学問負けをしない事であります。亜米利加の人は、己が学んだ学問は能く自分の腹の中に咀嚼し且つ同化して、之を日常万般の上に活用して居る事が、明かに認めらるゝのでありますが、翻つて我が国の有様を観ますれば、我が国の学者は己が学問を能く咀嚼し同化する事が出来ない為めか、如何にも学問が身体に別にクツツイて居るかの如くに感じられ、従つて学問の活用はおろか、却て己が学問が己れの邪魔に成り、謂はゞ己が学問に力負けをする様な傾きがありはせぬかと思はれます。以上の二点に就ては、学校の職員諸賢に御一顧を煩はしたいと思ひます。次に同窓会員諸賢に向て申上げて見たいと思ひますのは、近年学校の卒業生も、毎年二百数十名に達するとの事なれば、会員は年々、殖えるばかりで有りませうが、世には人数の増加が、却つて四分五裂を醸す基と成る様な事が往往御座います様ですから、既に皆さんで御計画が有つて居れば、私が申上る必要も御座いませんが、此の際適当の方法を講ぜられ、会の基礎を愈々鞏固ならしめ、且つ大に会の発展を期せらるゝ様の御計画を切に希望致します。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.423掲載)