「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月26日(金) オークランドで特別列車に別れを告げる。バークレーのカリフォルニア大学見学後、フェリーに乗ってサンフランシスコ到着。体調不良で欠席していた渋沢栄一、接見会などに出席 【滞米第87日】

サンフランシスコ商業会議所徽章

 「サンフランシスコ商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.428-435

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第十二節 桑港附オークランド
十一月二十六日 (金) 晴
午前六時オークランドに着、先きに一行と別れたる松方・田村の諸氏、及多木氏夫妻等此所にて一行に会す。一行が三ケ月来寝食せる特別列車、所謂「輪上の家」は、此に辞し去らざるを得ず、馴染深き車内のボーイ等使用人の中には、別を惜んで涙を浮ぶる者さへあり。一行も亦日頃の労に酬ふる為め、金員・紀念品など与へて、篤く之を犒へり。
九時半自働車に分乗して市内を見物し、アラメダよりバアークレーに至り、カリフオルニア大学を訪ふ、構内希臘式劇場にて略式歓迎式あり、桑港の歓迎委員にして、親日家の頭領とも称すべきドールマン氏、同大学校長フレーヤー氏の歓迎の辞あり、神田男、之に答ふ。大学中採鉱科教室等を見物し、午後一時半田園倶楽部に着、少憩の後ち、大食堂にて午餐を饗せらる。席上オークランド商業会議所会頭クレイ氏、下院議員ノーランド氏等に次で、ドールマン氏亦熱心に歓迎の演説を為し、最後に渋沢団長一応の答辞を述べたる後ち、吾等は一日も早く帰朝せんことを欲すれども、是れ故国を慕ふの意切なるが為めよりも、寧ろ米国各地に於ける厚意を、一日も早く母国の人々に告らせたきが故なり、(中略)我団は日米関係の将来に就いても、大いに企劃する所あらんとす。大富源を有し、且つ親交ある米国との将来は、殊に希望あり、且効果あらんを信ず、即ち各地にて受けたる懇情の、唯一場の夢とならずして、将来も事実上に大いに懇親の実を挙げられんことを切望す。云々と述べ喝采を博したり。蓋し団長は、先にロスアンゲレスにて休養以来、始めて此種の会に臨めるなり。
終りて一同は、自働車・電車等にて、ケイ・ルート・インに到り、茲に桑港商業会議所の歓迎委員と接見し、其案内にて特別電車に分乗し、渡船場に赴く、艀船は桑港マーケット街の下手なる発着所に着、同所階上にて奏楽の中に接見会あり、茲に州知事ゼームス・ギレット氏、市長テイロル氏、商業会議所会頭マクナブ氏等の歓迎の辞あり、渋沢男之に答ふ。夫れより一同は自働車に分乗して、丘腹なるフェーヤモント・ホテルに入る。今夕は正金銀行及東洋汽船会社共に好意を以て、支店員をホテル内の我団事務所に派遣し、両替及切符其他の手続を便宜にす。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.360-361掲載)


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