「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月25日(木) 在サンフランシスコ領事永井松三による講演「加州に於ける排日問題」

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) 附録p.19-24

 加州に於ける排日問題
     (車中にて)領事 永井松三氏述
桑港人士の日本に対する感情は常に変化あり、或る時は非常に好意あれども、又全く之れに反する場合もあり、悪く言へば定見なしと言はんか。彼の支那人は当加州に於ては偉大なる貢献をなせしものなり、何となれば、各種の事業、鉄道等に至るまで就工して其発展を助けしものは、実に支那人なり、而かも一旦排斥の悲運に逢ひたる支那人の現状は、実に憐むべきものなり。我が同胞も或は其轍に近からんか。嘗て珍田・陸奥の諸領事在任の折とても、屡排日的行為に際会し、陸奥氏の如きは米人との交際を頻りに力められしも、何分にも機未だ熟せざりし。是れ同胞の多くは労働者にして、従つて品位卑しと思はれ居たる為なり。日露戦役の後は、米国人も我日本の偉大なるを認めたらんも、戦後日本人は非常なる勢を以て、労働の為めに加州に入り来れり。啻に本国よりのみならず、布哇等よりも多くの転航者を見たり。其転航者に至りては、殊に品性卑賤にして陋態甚しかりき。之れに加ふるに、彼の震災後日本人街の位置甚不可なりき。従来日本人区域は支那人街の中に在りて、同胞の醜態欠点も余り目に付かざりしが、震災後は焼残りたる家屋を求めて白人の商業区域内に雑居の有様となり、為めに頗る白人の注目を惹けり。且つ其街路は、上下両町交通の要衢たり。街鉄もあることゝて益一般人士の注目凝視を受くるに至れり。且つ米人より見れは、日本は戦勝の余勢を以て、種々権利の主張などもあらんなど、恐怖の気味もあり、彼此にて遂に彼の学童問題を惹起せしなり。
桑港に現今五新聞あり。其内三新聞は左程にもあらねど『クロニクル』『エキザミナー』の二新聞は、下等労働者間に勢力を張らんが為め、頻りに排日熱を鼓吹し居れり。『クロニクル』の如きは、排日問題の先覚者は我社なりなどと唱へ居れり。是れ白人下等労働者社会の力をからん為めの一策なり。『エキザミナー』紙も亦、同様の方針を採り居れり。是等は排日の声を高からしめたるものなり。斯る機に乗じて、東部の或る人士は、其位置勢力を得んが為めに、遂に日米開戦論を主張するものあり。為めに不祥なる言論は、米国中に蔓延するに至れるなり。加州方面の排日論者は之に力を得て、増々事を針小棒大ならしむ。されど又、或る一部の所謂親日派の人士は、頻りに日本人の排斥すべからざるを主張し、学童問題の不条理なるを説けり。而かも加州の新聞は、徒らに学童問題を論ずるものにあらず、唯年長けたる日本人青年が、未熟の米国少女と伍して就学せるは、甚だ面白からざる現象なりと主張するものにして、東部に在る人士も此説を傾聴し、遂に日本の申出を曲解するに至り、従つて親日派の人も其立場を失ふに至りしなり。然るに大西洋艦隊の渡日より実業家の渡日、並に今回の日本実業団の渡米等に由り、遂に開戦説の如きは、殆ど全く其跡を絶つに至れり。而かも尚ほ労働者問題は依然として消滅せず、増々入国の難きを覚ゆるに至れり。
次ぎに日本人が何故に米国人の或者より嫌はるゝやに就きては、東西文明の差違、結婚法、財産分配の方法、男女の関係等に付き、種種米国人の習慣と一致せざる点あり、例へば米国人は、日本の娼婦は恥かしきことを知れども、娼婦となること夫れ自身を、左程に賤業と心得ざるなどの誤解もあり。而して日本人は、米化する素質に乏しく、労働には忠実なれども、永住の覚悟なき為め、永遠の策を講ぜずと云ふも有力なる理由なり。猶労働者側より言へば、日本人は廉き賃銀に甘んずるを以て、白人の仕事を奪ふの虞ありと云ふを有力なる論拠とす。唯だ米国人の日本人を好む側に於ては、各種果樹園などの働きには、日本人に限る、且つ日本人は時に献心的に働く美質ありとて、其例を挙げて賞揚するものあるなり。
而して日本人は、兎角支那人と雑居する傾あり、之れ支那人と同様に嫌忌さるゝ一因なり。支那人は博奕を好むこと甚しく、其過半数は之れによりて生活すと称するも、過言に非るなり。従つて此支那人と雑居する日本人も、亦博奕を好む下等人種と見らるゝに至るは止むを得ざるなり、此雑居の不利なるは極めて明なれば、之れを廃止せしめんとて当局者は屡々方法手段を用ゐしも、其効未だ完からず。唯サクラメント其他二三小都市は、前任小池総領事、其他日本人会等の尽力によりて、大いに其面目を改め居れり。然れども之を全く離隔し難きは、又種々事情の在るなり。例へば米国警官の時として無能甚しきこと、又支那人と離れては住家の安全すら得難き等のことあり。支那人の集団する地方には必ず醜業婦の多きも、亦其一原因なり。而して尚ほ日本人排斥の熾なる一理由としては、日本人は無暗に日本なる文字を用ゐ、頻りに之を利用し広告せんとす、故に白人は斯くまで日本人が多数にして又勢力あるかを感知して、大に警戒するに至れり。
然らば是等の多くの欠点を改良せば、果して太平洋岸に於ける排日論を絶滅し得るか。是れ甚だ疑問なり。資本家は日本人の酒色に関するなどのことは敢て問はず、唯日本人は、能く働くと云ふ点に於て、之を賞揚するのみにして、殆ど其品性人格に就て賞揚するにあらず。
近頃多少排日問題の閑却されたる如く見ゆるは、近来新渡米者の甚だ稀れとなりたる事、及日本より各名士・軍人等の屡来航あるが為なり。然かも之れ一時の現象にして、事あらば復何時にても捲土重来すべきなり。殊に茲に注意すへきは、桑港に於ける多くの実業家は、常に一致の行動を取り得ず、常に相分離するの傾向あり。而して現今其上流社会は、日米親交に好感を維持し居れり。
之れを要するに、桑港及附近の地方に於ては、現今尚排日の声なしと言ひ難きも、烈しき排日熱あるに非ず。
一言附加したきは、近き二ケ月間内に数ケ所の商業会議所より排日の声起れる事にして、是れ大に注目に値ひす。デルモントの北方に林檎・梨等の産地あり、又モントレーは漁夫多く、此の二ケ所に日本人約二千余あり、主として此等の手をかりて今日の盛況を見るに至りしなり。然るに其商業会議所に排日問題起り、頻りに白人労働者を入れんとしつゝあり。其理由は過去十五年間に於て、日本人より得たる利益は多大なるに相違なきも、若し始めより白人労働者を使用したらんには、現状より以上の繁昌を来し居りたるならんと云ふに在り。尚ストリクトンのローダイ地方の葡萄畑は、殆ど全部日本人の手に成り居れり。同地商業会議所に於ても、日本人労働者を減ぜざるべからずとの説あり。又羅府は最も親日派の人多き都市として知られ居るにも拘らず、昨今同様の決議をなせりと聞く。此等は区々たる労働者の排日運動よりも、一層注意せざるべからざる点なり。在加州同胞の之に力を尽すは勿論、母国に在る為政家にも、亦一臂の援を藉らざるべからず。(下略)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.356-358掲載)


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