「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月24日(水) エルトバー・ホテルを拠点にグランドキャニオン見学、ホピ・ハウスでは現地の舞踏を見る。ニューオーリンズ分遣隊、地方視察から戻り合流 【滞米第85日】

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第十節 リバァサイド、及レッドランド、グランド・キヤニオン
十一月二十四日 (水) 晴
レッドランド市を出て後、一・二時間は沿道柑橘樹其他の樹木鬱蒼たりしが、やがて高原に入るや、殆んど丈余の樹木を見ることなく朝来諸所に降霜を見る。午前九時頃グランド・キャニオン行鉄道の分岐点ウイリヤムスに着す。此所にサンタフェーという旅館あり。恰も館内に労働せる同胞四名より、ホテル及風景絵葉書六十組を寄贈さる。正午頃、グランド・キャニオン停車場に着、車内に昼食の後、正面なるホテル・エルトバールに入る。同ホテルの側面は、即ち天下の奇景グランド・キャニオンなり。一同巌頭に立ちて之を眺む。恰も死せる噴火孔の如き巨渓にして、其巾十八哩、周囲は二百十七哩、深さは四千呎より六千呎に達すと云ふ。斯く驚くべき凹処の出来たるは、原因詳ならずと雖も、按ずるに其昔大洪水のありて土砂若くは破壊し易き岩石を洗ひ去りたる結果ならんか、現に谿底に小流ありて、今尚ほ土砂を流しつゝあり。一同は四頭曳の馬車に乗り、或は馬背に跨りて、山上に定められたる展望所を東西に渉猟し、午後四時半頃ホテルに帰り、午後六時より一同晩餐を共にす。午後八時ホテル前の「ホッピー・ハウス」なる土人の家屋にて、土人の舞踏あり、一同之を見物す。午後九時一同列車に帰り、同九時半オークランドに向つて発す。先にニュー・オルレアン地方に向へる日比谷・飯利二氏は、此地に帰来して本団と会す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.315掲載)


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