「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月23日(火) リバーサイドでは現地邦人との接見の後、特別電車に分乗してシャーマン・インスティテュートを見学。レッドランドでは馬車に分乗し、スマイリー氏の私園を訪問後、商業会議所による午餐会 【滞米第84日】

リバーサイド商業会議所徽章

 「リバーサイド商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第274号 (1911.03) p.63-68

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
  ○十一月二十三日ヨリ以降増田ノ紀行記事ナシ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.304掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第十節 リバァサイド、及レッドランド、グランド・キヤニオン
十一月二十三日 (火) 晴
昨夜半列車は再び北方に回進して、リバーサイド市に着す。午前八時停車場に於て出迎の日本人との接見あり。同地日本人会長菱田峰次郎氏の歓迎の辞に対して、中野委員長答ふる処あり。午前八時四十五分商業会議所より廻されたる、二台の特別電車に分乗し、数町にしてグレン・ウート・ホテル前に少時停車す。同ホテル支配人ミラー氏は、現に商業会議所会頭なる由にて、已に歓迎の設備ありしも、時間の都合に依り立寄らざりしは遺憾なりし。夫より市外に出で柑橘園を左右に眺めつゝ、行くこと数哩にして「シヤーマン・インスチツート」と称する土人学校に至り、大講堂に入りて、土人男女生徒数百名の唱歌を聞き、後、建物階段前にて紀念撮影を為す。同校は米国政府の経営に係り、専ら土人(即阿米利加印度人)の教育に従事する者にして、現今男女生徒五百余名ありと云ふ。十時二十分列車に帰り、同十分レッドランドに向つて発す。
午前十一時四十分レッドランドに着、直ちに数台の馬車に分乗し、先づ市内巡覧の後スマイレー氏の私園に向ふ。同氏は紐育州に「モホンク」湖を開拓したる博愛主義の人にして、頗る公共心に富み、冬期中此市に来住する縁故を以て、当市の為に図書館・青年会館・公園等を寄附せし事あり。其私園は周囲約七哩に達する丘陵にして現に公衆に開放せられ居れり。元来禿山なりしを、植木採集に熱心なる氏は、三十五哩の遠方より水道を引き、まづ土壌を潤し、それより各種の植木を培養せしに、何れも見事に繁殖して、遂に現今の如き美観を呈するに至れり。午後一時カサロマ・ホテルに入り、同市商業会議所の饗応にて午餐を認め、後直ちに列車に帰り、二時発車グランド・キヤニオンに向ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.314-315掲載)


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