「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月13日(土) 日本での報道「渡米実業団消息」(東京経済雑誌)

東京経済雑誌』 第60巻第1516号 (1909.11.13) p.917-918

    ○渡米実業団消息
去月十二日紐育に入りたる我渡米実業団一行は、同地滞在十日にして二十一日夜ボストンに向け出発し、同地滞在中二十二日ニユーヘブンに抵り、エール大学の歓迎会に臨み、後更にプロビデンスに着したるが、此地は我邦の開国者たるペルリ提督の出身地なるを以て、歓迎一層熱誠を表はせり、廿四日ローマン氏の案内にて、渋沢団長以下数氏ニユーポートに赴きペルリ提督の墓に詣で、親しく花環を捧げたり、伊藤公の兇報は二十七日朝スプリングフヰールドにて耳にしたるが、当初之を疑ひしも、其の確実となるに至り一同驚倒し、深き弔意を表す可く其夕招待されし晩餐会を辞退し謹慎したるが、同国各商業会議所より一行に宛て続々弔意弔電を受けたり、夫よりニユーアーク、リーデイングを経て、二十八日ヒラデルヒヤに到着、翌二十九日は有名なる独立閣を観、造幣局・商業博物館を見物し、又海兵団を訪ひ、十一月一日夜を以て遂に華盛頓府に向ひ、二日朝同地に乗込み、直ちに自働車にて市内各官衙華盛頓記念塔・廃兵院等を瞥見し、次で国務省の接見室にて国務卿ノツクス氏及ウヰリヤム次官に面会す、渋沢団長は特に一室にノツクス卿と談話を交換す、一同は陸海軍省・大蔵省に於て各次官に面会、白堊館を見物、正午ニユー・ウヰルラード・ホテルに入る、午後は特別仕立の汽船にてマウント・ヴアノンにワシントンの墳墓及び旧宅を訪ひ、渋沢団長は花環を墓前に捧け、一同記念の撮影をなし夕景旅館に帰る、夜は世界第一の図書館・上下両院を参観し、商業倶楽部のレセプシヨンに臨めり、三日は天長の佳節に当るを以て午前十一時一同は華盛頓大使館に参集、謹んで遥拝の式を行ひ夜に入りてはニユー・ウヰルラード・ホテルに於ける松井代理大使主催の祝賀会に招かる、ノツクス国務卿・バレンジヤー内務卿以下臨席の米国紳士百余名、国務卿立ちて日米両国間の友情深厚なる歴史より説き起して、日本の米国に学びしよりは、米国の日本に学べる事のより多きを述べ、殊に武士道の如きは正に大に学ばざるべからざる所なりと賞賛し、更らに此の深き友情より推せば、日本の哀悼は即ち米国の哀悼なりとて、伊藤公の薨去に対し深く同情を表せる一場の弔辞演説を試み、尚進んで将来日米両国間に起るべき商業上の競争に就ては公平にして同情ある商業上の仲裁裁判を組織し、以て世界の平和を保持する好個の新例を示さん事を望むと結びて席に復するや、次で内務卿バレンジヤー氏の演説あり、之に対して渋沢団長は答辞を述べ、猶ほ国務卿の伊藤公爵に対する弔辞に対しては、深く感謝の意を表する旨を述べ、頗る盛会を極めたるが、一行は直ちにワシントンを去り、四日朝バルチモアに到着す、一同は同夕各所に於ける招待を謝絶し、静粛に旅舎に在りて遥かに伊藤公の葬送に対して弔意を表せり、七日シンシナチーに着、熱心なる歓迎あり、華盛頓着以来各地共数名の巡査を護衛として附するなど、歓待頗る周到を極む、同地は大統領タフト氏の郷里なれば、特に好遇の度厚きを見たり、次で八日夜インデアナポリスに入れりと云ふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.263-264掲載)


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