「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月13日(土) オマハ到着。マッキーン・モーター・カーで鉄道関連設備、車輛製造会社を見学。午後は水道会社等を訪問。夜に商業会議所主催の晩餐会 【滞米第74日】

オマハ商業会議所徽章

 「オマハ商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第273号 (1911.02) p.29-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十三日 土曜 (雨)
午前七時五十分オマハ市に到着す、前日来降り続ける降雨は今尚歇まず、寒気は日増し適切に感ぜられたり、午前九時青渊先生以下一同下車、停車場に於てネブラスカ州知事シヤレンバーカー氏・市長ドールマン氏等のレセプシヨンあり、十時半特に廻はされたるマツキーン式モーター車に乗り、ユニオン・パシフイツク鉄道の諸設備、マツキーン・モーター車輛製造会社、及同社の空中電気に依りて運転せんと試験中なる無線電気鉄道の設備等を見物す、同社にて製造する車輛はマツキーン氏発明の鋼鉄製自働車にして、一輛の長さ七十尺にして、七十人の坐席と荷物・郵便等の室を有せり、速力は一時間に五十哩乃至七十哩を疾走すと云ふ、此一輛の価三万八千円乃至四万円なり、而して運転に要する費用は一哩十二銭乃至十五銭、又修繕費は一哩三銭にて充分なりと云ふ
右の見物終りて水道会社に到り、ミゾリー河の水を吸収して之を清浄にし、同市に分配するの装置を一見し、茲にて略式午餐の饗応を受けたるが、此に供せられたる材料は凡て此市にて産出するものにて、皆其製造の会社より特に寄附せられたるものなりと云ふ、午後此処を辞して停車場への帰路、途中に於て塵埃吸収機械の試用を見物し、尚ストツクヤードの工場と設備を車中より望見して、三時ユニオン停車場に到着す、三時半自働車に分乗して市内の商店櫛比の地を巡見し、後レニンジヤー氏の美術館を見物し、次にジヨスリン氏の私邸を訪ひ、花壇客室の美麗なる装室を見、運動室に入りて種々の遊戯を試み、後音楽を聴聞し、茶菓の饗を受け、午後五時列車に帰着す
午後六時半停車場前より特別仕立の電車に乗し、商業倶楽部に到り、先づ正式レセプシヨンあり、後正式晩餐会を開かれたり、出席者の内には有名なる大政治家ブライアン氏夫妻あり(ブライアン氏夫妻は此日南米旅行の筈なりしも、特に其出発時刻を延ばして一行を歓迎し、且同夫人は我が一行婦人の為めに諸処案内の労を執られたり)席上ドールマン氏・ホラー氏の演説(別項載録)に次ぎて、ブライアン氏の演説(別項載録)あり、之に対して青渊先生一行を代表して答辞を陳べられ、十二時解散して特別列車に帰着す
            ネブラスカ州オマハ市長
               ゼームス・シー・ドールマン氏
司会者並に名誉ある日本淑女紳士諸君。
 諸君が今回吾がオマハ市に御来遊になりましたるに付きまして、此に諸君を特賓として歓待致す事を得まするは、実に吾々市民の誇りとする所で御座います。諸君は世界の一大強国として、東西均しく瞻仰するところの大民族を代表せられて我国に来られ、既に諸地方を御巡覧に相成りましたが、今御覧になりまする我オマハ市は、世界の尤も富饒なる大平原の中枢に位し、諸種の企業は申すに及はず、善美なる寺院・病院等兼ね備はり、将来世界の大都府たる可き地で御座いまする。今此地に於きまして其の市民を代表し、尤も熱心に諸君を歓迎致しまして、今回御光来の栄に酬い、尚ほ幾久しく渝らさる友情を紀念いたしたいと存します。
                 フランク・エル・ホラー氏
司会者・渋沢男爵、並に名誉ある日本淑女紳士諸君。
 此に日本国の名誉ある実業家諸君か我米国に御来遊に相成りましたるは、実に諸君に於て世界各国民が今や正に一新時期に到著したる事を御確認になりましたるの致すところと存じます。惟ふに日本帝国の実業諸団体を代表せらるゝ諸君が、此の科学時代、産業時代の発端に当り、日米両国実業家の親睦を図り、両国の間に於ける通商貿易の発達を助けんとせられまするは、是れ洵に諸君が世界平和の為め尤も有力なる使節として、高大なる任務を帯ひらるゝものでありまして、真に世界の一大盛挙であると信じます。諸君は賢明なる
日本皇帝の臣下として、夫の智識を世界に求め、大に皇基を振起す可しと宣はせられたる御趣旨を、尤も忠実に御履行相成る次第でありまして、此に二大国家の実業家が一堂に会して友誼を温めまするの挙は、貴国民としては元首の大御心に応へらるゝ所以の尤も善美なる御企であろうと存じます。
 今日は世界的通商の時代であります。光輝ある二十世紀は吾々実業家が充分の活動を為す可き天地であります。されば実業家たるものゝ社会に対する責任は、平和的の活動によりまして社会の衣食住を充すにあると存します。乃ち今日の世界は此の通商的活動の妨けとなる可き一切の行為を許さず、須らく各個の利害を保証して、以て実業家の勢力を高め、其の勢力に依りて世界終局の平和を致す可きである事を信じます。
 吾か米国と日本との関係は、上天の恩恵によりまして、夙に五十五年の昔、貴国開港の時に始まり、爾来連綿として今日に至りました。故に、吾々は諸君の尤も古き友人であります。而して吾国は、世界何れの国民よりも多くの物産を貴国より買ひつゝあるのであります。而るに貴国が昨年中に欧洲より輸入せられましたる総額は、実に四億八千九百万弗なるに、我国より輸入せられましたる総額は、僅かに四千百余万弗に過きません。
 此に私は諸君の賢慮を煩はさんとする一事があります。其は外の事てはありません。我米国産の貨物は、今日欧洲の貨物と競争して着々として優勢を示して居るのであります。而るに、諸君は世界周囲の三分の二に当りまする航路を遠しとせず、遥々欧洲より許多の貨物を輸入せられまするに、僅かに太平洋一帯の水を隔たる吾が米国よりの輸入が却て少額に過きる一事であります。惟ふに、日米両国間の航路には洋流並に順風の便かあり、距離は尤も近く、航路は尤も安全で、且つ運輸尤も廉価であつて見ますれは、天は我北米合衆国を貴国の為めに、尤善の輸入地且つ輸出地と予言したかの如く見るものであります。
 今日は幸に諸君の御来遊を受けまして、此に相共に歓談して、相互商業関係の御観察を願ひ、一方に於ては貴国の実業界に対し米国民一般の注意を喚起する上に於て此上もなき都合を得ました。私か申上る迄はありませんか、貴国の貨物を米国に運ふところの大艦巨舶が、積荷なしに帰航しつゝあるが如きは、実に一国経済上の大損耗であります。此の関係を改変して相互の輸出入を均勢ならしむるは御互に望ましき事ではありませんか。故に私共は充分貴国と親睦して、貴国の習慣を稽へ、需要を知り、是に就きて充分の智識を得ねばならぬと確信致して居ります。幸に貴国の諸学校には英語を必修の一科とせられて居りますから、我々は相互貿易の上に好都合の次第であります。して之れより貴国に対して我貨物の輸出を増加する上に非常の便利を得る事と存します。
 諸君は既に米国諸地方の製造工場等を御覧になりまして、我か洪大なる産業界の有様に就て、充分の御観察があつた事と存します。特に我が農業界の現状並に洪大なる未開の富源に就ては、吾々米国人以上の御感興かあつた事と存します。更らに進んで諸君は将来両国間の輸出入を増加して、貴国経済界の利益を図るの御胸算を立てられたる事と信じますから、這回の御巡察の結果として、今後我国に対し続々用を命せらるゝに至る可きを御待ち申して居ります。
 惟ふに貴国民を、世界各国民中尤も洽ねく地を耕し、最も善く地面の経済を心得居る国民と存します。其の大ならさる田圃を以て能く米国人口の半に当る国民を支持し居らるゝ諸君の眼には、我米国の粗雑なる開墾法は嘸かし御注意を喚起したる事でありましよう。どうか此点に就て吾々に教訓を与へられ、其れによりて、吾が農産を饒多ならしめ、以て貴国民の需要に充つる事を得ますれは洵に仕合せと存します。且又出来得るならば、貴国人は吾米国の為めに仲買人となり、貴国の市場、而已ならす、進んで諸君の同人種たり、旧友たる亜細亜大陸幾億万人衆の為に、吾か貨物を頒布せらるゝに至らん事を希望致します。
 吾々米国実業家は、今後休暇を取ります時には欧洲に行かずして貴国を訪ひ、貴国人に親しみ貴国人の需要を熟知致すでありませう又た我国の青年は、世界実業界の問題を研究し解皮するは、至要至必の修養であるといふ事に留意せねはならぬと考へます。抑も、吾かアングロサクソン民族通商の発達、並に智識の進歩の基く所を考へまするに、西欧羅巴に於ける我等の祖先か、十字軍以来東洋人より学ぶ所に負ふところが多かつたと考へます。今や吾々は再び東洋諸国と通商致す事によりまして、通商上・工芸上並に学問上の一新紀元を開く可き運命に居りまするから、諸君か吾国に御来遊に相成りたると、又吾国有志の貴国漫遊とが将来此希望を実現する事の基と相成るでありませう。
 されは、今回諸君御遠来の盛事は将来に於ける東西通商的伝導事業の元始と相成るのでありませう。冀くば、此の挙が先駆となりまして、将来続々同様の往復交遊を重ね、依つて以て互に誼を厚うし大日本帝国と北米合衆国との間に永久不変の友愛と平和を維持致し度いと存します。
世界有数の大政事家たるブライアン氏は起立したり、一同起立拍手を以て迎ふ、無髯髭の半禿頭の四十二歳の氏は、悠々迫らさる態度を以て語り出てたり
              ウヰリアム・ゼー・ブライアン氏
司会者並に賓客諸君。
 今夕、此に席末に列しまするは私の大に幸とするところで御座います。今より四年前私か家族と共に貴国に漫遊いたしましたる時、貴国民より受けましたる真実なる款待を想い、私か今夕此の席に於て諸君に見えまするは、実に喜悦に堪えさる所で御座います。
 私は数年前日本の一学生と相知り、極めて親密なる友誼を結ひました。其の青年は私の家に居りまして、私と同居する事五年以上に及ひましたが、実に品行方正にして且つ学問に熱心なる方で御座いまして、他日、日本の為めに有用の材たらんとするの大熱心を有して居られました。私は非常にその性格と志望とに敬服いたしました而已ならず、其の人と為りを見て大に日本国民の敬慕す可きを感しました。その人は山下弥太郎と申す方でありますが、日本に帰られて後は弥太郎ブライアン山下と称して居られます。私は今此処に此の因縁を申述べまして、山下君に対し相渝らさる敬意を表したいと存します。
 其の後私は日本に参りまして、この山下君以外に多くの知己を得ました。就中、近頃不幸にも毒手に斃れられまして世界各国の均しく哀悼いたして居りまする夫の伊藤公爵は、世界の大勢力に通暁せらるゝ大政治家として、敬服す可き人物であると深く感銘いたしました。公爵は日本の将来は世界文明諸国と密接の関係ある事を念はれ、正義は個人の為にも亦た国際間にも交際の大道であるから、此の正義によりて国際の局に処せむとの意見を有して居られました。
 又、私は幸に伊藤公爵の政敵たる大隈伯爵とも会見いたしましたか、私は此の両大政治家の意見を承りまして、日本に於ても将た米国に於ても、政党異同の由りて成るところは、之を政治家の大精神のあるところに比すれは実に些事に過きない、日本帝国に於ても、我米国に於ても、政治家の一大精神とするところは実に愛国の一念である、国利民福と云ふ一大主義の前には、党派の異同は真にいふに足らさるものである事を感しました。私は今此に臨まれましたる如き御方御方が、吾米国に来遊になりました事を喜ふもので御座います。凡そ個人の間に於きましても亦た国民の間に於きましても、齟齬確執の由て起るところは、単に相互の誤解に基くものでありますから、斯く日米両国民の交誼を温めまするは、即ち既に親密なる関係をして一層親密ならしむる所以であらうと考へます。抑も国境には貨物の輸出入に対する税関はありますが、思想の輸出入に対しましては何等の制裁機関もありませぬ。併るに思想輸出入の必要なるは、貨物の必要の比ではありませぬ。左れは吾々は此の貴重なる思想をば、何れの国民よりも自由に輸入し得るのでありますから、今回賢明なる紳士諸君が米国より貴国に持ち帰られ、貴国の福利に資するところ蓋し少からざる事と存じます。
 冀くば諸君が今回の御巡遊になりまして、日本国家の為に多くの貢献あらむ事を祈て已みませぬ。我が米国の今日に有しまする総ての事物は、勿論悉く祖先の智識と経験とを相続致しましたものに過ぎませぬから、之を諸君の御参考に供するは、実に吾々の義務であろうと考へます。日本に於て吾等を知遇せられたる第一の団体は、夫の米国に於て大学教育を受けられたる御方々の会でありまして、之を米友協会と称せられて居ります。私は日本国民と米国民との親睦が、斯くも両国交友の結縁となりたる事を感謝いたしたのであります。私は此の深遠なる厚誼の存在を喜び、将来何物も此の関係を阻害する事を得ぬと信して居ります。抑も世界各国は自国民の福利を保護す可き義務ある今日、敢て他国民の不興を買ひ、延て他国民をして自国民の権利に危害を及ほさしむる如き愚を為さざる事を信して疑ひませぬ。現世界の趨勢は、国際の関係主として相互の善意に基かんとし、夫の平和の仲裁を以て戦争に代へむとせるが如き、実に我世界は漸く平和の世界たらんとして居ります。私にとりまして、特に喜ばしきは、吾米国か此の平和運動の主導者たる事であります。思ふに我国は世界に率先し一大協約の提議者となり、各国相協議して、総ての国際的紛争は必す先つ仲裁会議に対す可き事を約し、仲裁会議は事件の真相を調査し、議を定めて双方の対手国に交付す可き機関を設け、仍て以て戦争を防止せんとする時期は既に到来したりと信せらるゝので御座います。若し此事が実現せられますれは、仲裁会議に従ふと否とは、仮令双方国民随意とするも、実際には之によりて、戦争の禍を絶す事を得ると想像せらるゝのであります。更らに喜ぶ可きは、人生哲学の進歩が近年特に顕著と相成りまして、之によりて、戦争の禍を除く可き傾向であります。隣人の災禍を祈る事能はさる個人は、国民としても隣国の災禍を祈る道理はありますまい。各国人は社会の進歩発達によりて自ら益するか如く、国民としても亦世界各国の進歩発達を祈り、爰によりて自ら幸福ならん事を計るべきでありませう、惟ふに今日の社会に於ては、個人も国家も相互の関係が極めて密接でありますから、他人の損害によりて自ら益し、もしくは他国の衰頽に乗して自ら強ふする如き事は、決して策の得たるものではない、必ずや、一切のものゝ権利を保護し、各員の福利を発達せしむる事に依りて自己に利益を得、幸福を享くる事を得るといふ事か、世界一般人類に信せらるゝでありませう。
ブライアン氏に次ぎて、青渊先生は一行を代表して左の演説をせられたり
 本日茲に名声赫々たるホーラー氏、及東洋の児童と雖も尚其氏名を知悉する世界の大政事家ブライアン氏、其他の諸賢と相会したるは、予の光栄とする処なり
 ホーラー氏は、四十九年前米国に来りし日本使節を瞥見せられたりとの事なるが、予は又コンマンドル・ペリー氏が日本横浜に来りし当時の日本に就て語らんと欲す、当時日本の政治家は米国が日本を征伐に来りしものと誤解し、予も漸く十四・五歳の少年なりしが窃に扼腕したる次第なり、其後始めて其誤解にして、同氏の来航は日本開発の為めなる事を悟り、翻然として爾来米日両国の親睦駸々として増加したり
 日本は四十九年前より米国に負ふ処甚大なるが、尚一層両国貿易の発達を計らん為め、昨年五・六の商業会議所が主となりて、貴国太平洋沿岸の実業家を招待したるが、其返報として本年は吾々一行が其招に応して当国に来遊したる次第なり
 ダールマン氏が、日本は東洋における米国、又米国は西洋に於ける日本なりと言はれたるは、実に吾々一行の意志にして、此一言は吾々が日本に持帰るべき土産の第一のものなりとす
 予は米国人は自国の富多く、物資又饒多なれは外国に向て輸出に専心従事する能はざるやを疑ふものなるが、ホーラー氏の東洋に於ける米国品の販路は、日本人に依りて拡張すべし、尚休暇を得たるときは日本に漫遊すべしとの所論は、吾々の全然同意する処にして必ず如此ならん事を切望するものなり
ブライアン氏の演説に対しては、伊藤公・大隈伯の事、仲裁々判の事に付き意見を述べられ、更らに戦争の禍害を除かんとする唯一の道は道徳に在りと演説せられたり
(一行の人々がシカゴ・紐育等に於て買入れたる種々の物品は、運賃を免かれん為めにはあらざるべけれど、特別列車中の貨物車に積んで山を為し、為之同車中に保管せるトランク・行李の出し入れに非常の不便を感じたりしが、オマハ市に於て是等新規買入に属する物品は、総て桑港へ向け発送する事と為りたり)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.292-298掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.352-388

 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
     第九節 オマハ
十一月十三日 (土) 雨
午前七時五十分オマハに着、ネブラスカ州知事シャレンバーカー氏同市々長ドールマン氏等の略式接見会あり。午前十時半頃一同は特に廻はされたる「マッキーン式モートル」車に乗り、ユニオン・パシフィツク鉄道の諸設備、「マッキーン・モーター」車輛設備及無線電信の設備等を見物し、正午頃フローレンスに向ふ。茲にオマハ水道会社の水揚げ場を見物し、同所にて略式の午餐を饗せらる。午後三時半頃ユニオン停車場に帰り、再び自働車に分乗して、市内の問屋町・住宅区域・大道路公園を過ぎて後、レニンジャー氏の美術館を見物し、次でショス・ライン氏の私邸を訪ひ、音楽を聴き、茶菓の饗応に預り、午後五時一同特別列車に帰る。
午後六時特別電車にて商業倶楽部に到る。正式接見会の後ち晩餐会あり。此日大政治家ブライアン氏夫妻は、南米旅行出発の当日なりしも、特に我が一行歓迎の為め態々当市まで出張され、午後は同夫人など特に我が婦人連の為めに案内の労を執られたり。蓋しブライアン氏夫妻前年本邦にて受けたる好意に酬ゆる為めなり。晩餐会席上ドールマン氏・ホラー氏等の演説あり、特に邦語訳文を予め配付されたり。ブライアン氏演説左の如し。
    ウイリアム・ゼー・ブライアン氏演説
  ○前掲ニツキ略ス。
宴後一同電車にて列車に帰る。
予ねてセント・ルヰ滞在中に注意せし次第により、今朝九時より一切の荷物を、一貨車に纏め、桑港へ向け発送の手続きを為す。
婦人の部 ディティ夫人宅に午餐の招待を受け、午後二時ミラールド夫人方及びシヨスリン氏夫妻主催の接見会等に臨み、夜はカウニッツ夫人方晩餐会に招かる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.308-309掲載)


参考リンク