「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月12日(金) カンザスシティ到着。商業倶楽部のレセプション、ウェストポート校では学生による歓迎の合唱。渋沢栄一は市内見学を中止し休憩するも、晩餐会には出席 【滞米第73日】

カンサス市商業倶楽部徽章

 「カンサス市商業倶楽部」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第273号 (1911.02) p.29-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十二日 金曜 (雨)
午前七時半カンサス市に到着、此日は生憎雨天にて、昨日とは打て変り一入の寒さを覚ゆ、車中朝食を済まし、九時半商業倶楽部の歓迎委員に迎へられ、青渊先生以下一同自動車に分乗し、同部のレセプシヨンに臨み終りてウエスト・ポートの高等学校に到り、校長の先導にて講堂に入るや、已に茲に集合せる男女生徒千余名は起立して歓迎の歌を合唱し、次ぎて校長の歓迎の辞あり、神田男爵英語にて答辞を陳べ夫より校内の食堂に導かれ、女生徒の手に成れる茶菓の饗を受け、又木工実習室を参観したる後、イヴアンストン倶楽部に到りて立食の饗を受け、夫より一行は自働車を列ねて、市内の重なる街路を巡覧し、市中銀行及製造業を巡視せられたるが、青渊先生には同倶楽部より直に列車に戻り休憩せられたるが、更に午後七時ボルチモーア・ホテルに於て開かれたる正式晩餐会に出席せらる、席上商業会議所会頭ダブリユー・チー・ブランド氏、市長クリツデン氏、上院議員ワルナー氏及セントルイ市より一行と同乗し来れる前州知事フランシス氏の演説あり、之に対し青渊先生及神田男爵の演説ありて、十一時宴を撤して一行列車に帰る
左にブランド氏の演説、及同氏の青渊先生及神田男爵紹介演説を採録
      ダヴルユー・チー・ブランド歓迎辞
渋沢男爵閣下並に歴々の日本賓客諸氏、及我淑女並に紳士諸君、吾人は太平洋沿岸の我同胞には諸事負ふ所尠しとせず、就中今般日本国民代表者諸氏を招待し、我太平洋沿岸諸州の巡覧に次て、遍く当国各地の視察を乞ふに至りたる太平洋沿岸聯合商業会議所今回の挙の如きは吾人の最も多とする処なり
カンサス・シチー商業会議所及カンサス・シチーは、幸に諸氏御立寄の栄を辱ふするを得たり、吾人は諸氏が該招待並に当商業会議所の招待を快諾され、此処に我賓客として来臨ありしを謝す
斯くも著名の人々、広く日本の実業代表者にして本国の運命を左右せらるゝ諸氏を、此国に送られたる日本国の厚意に対し厚く謝意を表す吾人は日東桜花の帝国より来られし此諸氏を迎ふるに、豈一片の空辞のみにて可ならんや
近世の日本及米国の歴史は因縁浅からず、希くは親交年と共に深からむことを、久里浜のペルリ紀念碑廃滅の折あらむも、当国の交誼は綿綿として永く絶えざれよ、諸氏当国への御渡航は利福に貢献する処あるを疑はず
諸氏遍く巡視の途上、諸処にて心尽の歓迎を受けられたるべし、されど当市民並に当商業会議所の心尽の切なるに及ばざるべしと思考す
諸氏の現在在ます所は、当国の中心点に近く、ミゾリー、カンサス二州の界、大ミゾリー川の岸頭にあり、ミゾリー川たるや当国最長の川にして、延長二千九百哩、其貫流する処豊饒宇内に冠たり、世『世界のパン籠』といふ、蓋し過言にあらず、吾人は今正にメキシコ湾に至る水運計画の最中にあり、メキシコ湾・カリビアン海・パナマ運河・太平洋を経て、低廉に両国間に輸出入をなすの日の到来せむことを嘱望す、此の計画にして成らば、日本国と米国とを接近せしめ、延ては両国の友誼を強固にし、相互交情の永遠不変を来たすに益あるべし
米国は常に同情を以て貴国々運の隆盛を希望す、往時大統領アダムス氏「日本国も亦世界民族の伍に列せむことをすゝむ」と云ひ、千八百五十三年七月―貴国及米国の史上記憶すべき日―ペルリ提督の浦賀訪問、尋で翌四年浦賀条約の締結を見しより此方、米国が貴国に寄する温情は毫も弛退せる事なし
独り米国のみならず、貴国も亦た其開化・進歩・発展により、未知の一国より挺出して宇内強国の伍に列するに至る迄、我好情を記し、常に我に対しよく友情を表彰されたり
貴国が国家の存亡を賭し、人口最多の二国と奮闘せし時に当り、我国民は多大の同情を以てその始終を目撃したるが、是等の大戦争の平和の終局に資する為め、我国の大統領クリーヴランド、ローズヴエルト二氏を通じて微力を致せしは、吾人の光栄とする処なり、諸氏の折角の来遊に際し、不計伊藤公の薨去の報に接せられたるは、吾人の諸氏と共に悲む処なり、伊藤公は日本の嚮導者にして、又米の親友なりき公永へばその余慶に浴するもの独り貴国人のみならむや
終に臨み余は信ず、純良なる日本人及米国人は、相共に嘗てペルリ条約に生れて、五十年来替らざりし両国の交情の永遠不変を切望する事を、希くは「君が代」と「ヘール・コロムビア」の常に合唱せらるゝこと、過般我艦隊の貴国訪問の節に於けるが如くあらむことを、希くは旭日旗星条旗とは永へに戦場に相見ゆるの機なく、常に平和に相交叉するのみなれ、吾人の諸氏を迎ふるの意此処に在り、希くは諒せよ
      ダブリユー・テイー・ブランド氏の
      渋沢・神田両男爵紹介の辞
(渋沢男爵)
今日吾々が日本国民の輿望を負へる一偉人と此処に相見ることを得たるは、吾々の多幸とするところにて、又実に光栄とするところなり
君の類稀なる成功は、全く君の不屈不撓、向上益々倦まざる努力・精力、並に其超凡の才幹に因るに非されは克はさるなり
一農家に生れたる君は、歳僅に十四にして商業に従事し、其成功已に見るべきものあり、後市都に移るや寝食を忘れて国事に奔走し、屡々生死の境を出入せられたり
軈て君は明治政府に入り、大蔵省書記官として国家の財政に関与し、大に其の手腕を揮ひたり、其仕官中に於ける功績の主なるものは、国庫の歳入を増加せしめたること、税率の改良、紙幣兌換の制を改善せること、銀行の創設、総予算編制等なり
かくの如く君は、政界の人として又大蔵官吏として着々成功せられしが、国富の本源は商業の発達にあることを早くも観破し、野に下りて幾多の会社・製造所を組織設立せられたり、実に日本の会社は、悉く君が指導の下に組織せられたりと言ふも可なりとは、日本人の一般に唱ふる処なり、故に君は事実に於て日本現今実業界の覇権を掌握せらるゝなり、而して日本に於て銀行に株式組織の制を創めたるも実に君なりとす
君は堂々たる政事家であると同時に、実業界の雄将たり、否実に覇王なり、而して日本に於ける幾百年伝来の実業を卑む弊風を排し、商工業に従事するも政界の人たるも、将た政府にありて立法官たるも行政官たるも、等しく貴むべくして変る処なきこと、即人間権利平等の思想を、其国人間に不知不識の間に鼓吹して、日本の富を増殖したるは蓋し君の一大功績に帰せざる可からず
英雄は仁愛なり、君の一面は又大慈善家なり、君は常に諸般の慈善事業・社会公共の事業の為には投金を惜まず、又其貴重なる時を割くことを毫も惜まれざるなり
君が幾多の経営事業、其光輝ある経歴、並に其稀世の成功は、君の人物を語りて余あり、今更茲に吾人の喋々を要せざるなり、現に君は此済々たる多士より成る日本実業団々長たるにあらずや
今茲に予が日本のジエー・ピアモント・モルガン、否男爵渋沢栄一閣下を諸君に紹介するは実に大なる名誉とするところなり
(神田男爵)
今日此商業全盛黄金万能の時に当り、吾々は完備せる教育機関に因て得らるべき立派なる向上発展が、吾人にいかばかり必要なるかを稍々もすれば忘れんとするの傾向あり
茲に天与の材幹技能衆を抜づるものあり、此人もし富を求めんか、必ず得らるべく、業を起さんか又必ず遂げらるべし、然るに此人が一度其一生の事業として身を教育界に投じ、而もそれが全然清廉潔白なる綺麗な動機から出でたるものとすれば、其人たるや実に愛国者たる資格を立派に具備せるものと言はざるを得す、吾人は此席に於て如此人を得たるを喜ぶ
神田男爵は年十七にして海を超えて此国に来り、翌年マツサチユーセツト州なるアムハースト中学に入り、刻苦三年業を了へて直に同大学に進み、精励四ケ年優等の成績を以て卒業、ビー・エーの学位を得、又其後エム・エーの学位を同大学より得られたり
君は又在学当時教育学を研究せられしが、此国に於て業を卒へるや、独逸に渡り英国に赴き、又其他欧洲各国を遊歴し、専心外国語学の研究に従事せられ、今日日本に於て外国語学の大家として、又教育家として肩を比ぶる者は一人も見出す事能はず、吾々英語を用ゆる国人は特に日本に君あるを誇として可ならすや
君が独創にかゝる新式英語教授法は、実に理想的にして、其斯界に貢献せることの大なる日本国人一般の称揚措からざるところなり、君が従来教鞭を執られたる学校は、東京高等商業学校・外国語学校東京帝国大学文科大学・学習院等なりとす
此教育界の偉人の事蹟は、必ずや日本歴史の数頁を飾ることゝ信ずるなり
今茲に男爵神田乃武閣下を諸君に御紹介するに当り、予は非常なる歓喜の念が胸に満つるを覚ゆるなり
左の略歴は、当地商業会議所より特に一行に配布したるに付き、茲に掲く
チー・チー・クリツテンデン氏(キヤンザス・シチー市長)
氏推されて市長の職に就きしより、一意専心市の為めに尽す、市今日の繁栄勃興を致すもの、氏に負ふ所少なしとせず、其能弁を振て市局を論ずるや、熱烈而も厳正、優に市の元首たるに恥ぢず
ウィリアム・ワルナー閣下(合衆国上院議員
当市々民の錚々たるもの、其職に従事するや、厳正苟も撓まず、常に公益を考慮し、重任を負ふて屈せず、キヤンザス・シチー市長、合衆国巡回地方裁判所検事、合衆国下院議員、合衆国地方裁判所検事に歴任し、現にミゾリー州選出上院議員の顕職に在り
ダヴヰツド・アール・フランシス閣下(前内務卿)
幾多の要職に歴任し、毎に熱誠、市・州及全国民の為めに貢献する所少なからず、曾てセントルイスに市長、尋でミゾリー州に知事たり。セントルイス万国博覧会開催に当りては、推されて其会長となり、大統領クリーブランド氏の内閣に入りては、内務卿とし其の名声を高む、氏今や当市商業会議所名誉会員、今回セント・ルイス市及キヤンザス・シチー市より推され、特に外客接伴の衝に当る
当市に於ては夕刻より発車まで警察官十数名一行の列車を警護し、且一行の単独行動を為すものには特に尾行警衛を為したり、西部に来るに従つて、此の必要を認めらるゝは慨はしき事共なり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.289-292掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.352-388

 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
     第七節 カンサス市
十一月十二日 (金) 雨
午前七時半カンサス市に着し、同九時半商業倶楽部の歓迎委員に迎へられ、直に自動車に分乗し、商業倶楽部の接見会に臨む。終りて又自動車に分乗し、ウェストポート中学校に至る。一行の同講堂に入るや男女生徒千余名の合唱あり、次いで校長アンダーウード氏及ミル氏の歓迎の辞あり。神田男爵之れに答ふ。構内の食堂・木工実習室及体操場等を参観したる後ち、ステーブン公園に至り、イワンストン・ゴルフ倶楽部にて立食の饗応を受く。午後は市内の重なる街路を巡覧し、商業銀行及「キングマン・モーア」農具製造所等を巡視して、五時半頃列車に帰る。午後六時半再び一同自動車に分乗して、ボルチモーア・ホテルに至り、晩餐会に招かる。席上商業会議所会頭ブランド氏を始め、市長ティーティー・クリッデン氏、合衆国上院議員ウィリアム・ワルナー氏、及フランシス氏等の歓迎演説あり、例により渋沢・神田両男之に答ふ。
婦人の部
 午前十時婦人歓迎委員の出迎あり、自動車にて先づ市中を見物し後田園倶楽部に赴き、茲にて午餐を饗せらる。了りて特別列車に帰り、午後七時ボルチモーア・ホテルの晩餐会に出席、男子側と共に列車に帰る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.308掲載)


参考リンク