「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月10日(水) セントルイス到着。銀行、金物会社、株式取引所などを訪問。午後、米国国務省派遣接伴委員R.S.グリーンの送別会開催。夜はレセプションと晩餐会 【滞米第71日】

竜門雑誌』 第272号 (1911.01) p.45-52

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十日 水曜日 (晴)
午前七時半セントルイス停車場に到着、九時十五分商人協会歓迎委員の出迎を受け、特別電車に乗じてサウザーン・ホテルに投す、十時半青渊先生以下自動車に分乗してナシヨナル・バンク・ヲブ・コンマースを視察し、又有名なるシモンス金物会社を訪ふ、帝国名誉領事スミス氏は同社の重役なれば、特に一行の歓迎に力を尽されたり、午後一時株式取引所に到り、前州知事フランシスの接見会に臨み、一時半ホテルに帰着す、午後二時よりホテルの第二階食堂に於て、シンシナタ市に於て決議せるハルピン領事グリーン氏の送別午餐会を開く、青渊先生以下一行及同行米国人の全員出席す、同氏は米国政府より特に一行の為めに派遣せられたる人にして、故厳父は日本に伝道師たる事四十年、母堂は現に東京麻布に居住せり、而して氏は日本長崎に於て生れ、後米国に学びて日本横浜領事館に在勤したる等を以て日本語を能くす、一行の氏に信頼したる処甚た多し、席上青渊先生は一行を代表して左の送別の辞を述べらる
  吾等は今ま親愛なるグリーン氏と訣別せざるを得ざるに際会せり、我が実業団が沙港に着以来、同君の厚き御深切を蒙りし事は今更申迄もなし、実は四・五日前に此の報を得たりしかば引続き一行と旅行を継続せられ度旨其筋へ陳情する処ありしも、公務の事とて如何ともする能はず、依て接待委員諸君と相談の結果、茲に送別の宴を催し、此席に於て去る七日シンシナタ市滞在中団員総会に於て決議したる感謝状を贈呈せんとす
とて、左の感謝状を朗読せられたり
  拝啓、陳ば我実業団は本月七日シンシナタ滞在中特に開催したる団員総会に於て、満場一致左記の如く決議致候、依て当団を代表して之を貴聞に達するは、拙生の本懐とする処に候 敬具
    決議
米国々務省特派委員たるロジヤー・ヱス・グリーン氏公務の都合に由り、日ならずして別れを我実業家に告げんとす、仍て我団は全員一致左の事項を決議し、永く之を記録に留んとす
一 吾人はグリーン氏が其沈着荘重なる態度を以て、当団及団員の為めに終始表呈せられたる好意と懇情とに対し、満腔の熱誠を以て之を謝す、且つグリーン氏が崇高なる人格は言ふ迄も無く、能く本邦の風習を知悉せると邦語の操縦に自在なることは、共に我団員の助言者・指導者たるに於て至大の便益を与へたり
一 然るに今や氏は当団を辞して遠く任地に赴かんとす、当団は今後の旅程に於て、氏の懇篤周到なる斡旋を享け難きを深く遺憾とする処なり、然れども吾人はグリーン氏が吾団員一同に衷心より敬愛せられ、今後奉公報国の途に於て、栄達多幸ならん事を切望せられつゝ、爰に袂を分つに至れるは、吾人の聊か以て欣慰する処なり
一 此決議はグリーン氏出発の日、渡米実業団々長渋沢男爵より之を同氏に送達すべきものとす
  明治四十二年十一月七日
        米国シンシナタ市シントン・ホテルニ於て
                     渡米実業団
尚小生個人として申添度は、過ぐる十週間の多忙なる旅行中、貴下の日夜鞠躬尽瘁せられたるは、深く感佩する処なり、殊に今回の如き記憶すべき事多き旅中に於て、貴下を新知己として懇親を結びたるは、実に拙生の欣喜措く克はざる処にして、今後此の友情の一層増進せん事を、衷心より悃望して已まざる処に候
  明治四十二年十一月十日
         米国セントルイス市に於て
           渡米実業団々長 男爵渋沢栄一
    ロジヤー・エス・グリーン君貴下
尚ほ青渊先生は語をつぎて曰く
  余は個人として茲に同君と別るゝを深く悲むものなり、されど翻て之を考ふる時は、同君の任地はハルピン市にして、同地方は欧米人を始め、我が日本人も大に注意する処なり、然るにグリーン氏は元来機敏にして而かも沈着の才幹ある人が米国の領事としてハルピンに赴任せらるゝは、一方に惜別の情堪へ難きと共に、又一方には同君の赴任を頗る喜ぶものなり、今日は即ち最も歓喜を以て訣別せんと欲す云々と述べ
日本文を正本とし、之に英訳を添へたる感謝状をグリーン氏に贈呈したり、次にローマン氏は立ちて送別の辞を述べ、グリーン氏の健康を祝し、又エリオツト氏は同行外国人を代表して送別の辞を朗読し、最後にグリーン氏起ちて答辞を述べたり
右畢りて一行は、米国最大と称せらるゝ麦酒醸造所アンホイザア・プツシユ会社の見物に赴きしも、青渊先生はホテルに在りて信書を認められたり
午後七時青渊先生は、一行と共に特別電車にてセントルイ・クラブに於るレセプシヨンに臨み、引続き歓迎晩餐会に列席す、商人協会会頭にして帝国名誉領事たるゼームス・イー・スミス氏司会者と為り、先づ 天皇陛下の万歳を三唱す、水野領事は日本帝国を代表して米国大統領の万歳を三唱す、次に市長エフ・ダブリユー・クレイスマン氏起ちて、諸君の如き新進の文明国の実業家の来遊を歓迎す、諸君は此市に於て商業工業上に利益を得らるべし、而して此市も亦諸君より得る処の利益尠からず云々と述べ、次ぎに青渊先生は一行を代表して大要如左演説を為す
  当市の懇篤なる歓迎と、鄭重なる饗宴は、一行の感謝に堪へさる処なり
  古語に瓶水の凍るを見て天下の寒を知り、庭前の花を見て天下の春を知ると有るが、正午の商品取引処の模様を見、今又ホテルより此クラブ迄の途すがら市街の景況を見て、当市が合衆国中央部の大都市にして農工業に密接の関係を有し、将来大に発達すべき大都市たるを知ると共に、爰に多数の友人を得たるを喜ぶ
  近年日米両国の貿易は駸々として進歩したりと雖も、将来尚此が発達を計らんと欲せば、益々両国民と交際を親密にせざるべからず、国民間の交際の進むに従て貿易の進捗期す事を得べし、吾々の来遊したる理由亦爰に存するなり
  各地に於て受けたる歓迎は、只に一行の光栄に止まらず日本実業家の光栄なり、日本実業家の光栄に止まらず、日本国民の光栄なりとす、貴国の諸君が自国の広大なるよりして、比較的に他国に巡遊する事の少き哉を思ふ、貴市の如き大都会にをりながら日本を知らざる者あらば、吾人の大に遺憾とする処なり、相知より事物の生ずる物なりとの古語に依るも、諸君の是非日本に来遊せられん事を希望す云々
次ぎにクリブラント内閣の時、内務大臣たりし前の州知事にして、明治卅七年セントルイ万国博覧会の総裁として、我 天皇陛下より勲一等旭日大綬章を授与せられたるデー・アール・フランシス氏は、大要如左演説を試む
  当ルヰジアナ州は刃に衂らずして米国に買入れたる地なり、数年前茲に開催したる万国博覧会は、実に其百年の記念たりしなり、然るに日本は開国以来茲に二千五百六十九年、即紀元前六百六十年開国の日本は、爾来赫々たる光輝を放ちて、今に到るまで一度も国威を損じたる事なし、是れ吾人の尊敬する処なり、当市に於ける彼の博覧会の成功を以て終りしは、種々の原因存するあらんも、然かも日本が非常なる熱心を以て参加せられたるも、蓋し其一原因ならずんばあらず、当時不幸にして日露の国交破れ両国干戈を以て相見ゆるに際し、四億の民衆を有する露国は其建築を中止して其土地を返納し来れり、然るに人戸に於て僅かに十分の一を有する日本は、啻に当初の意気込を失はざるのみならず、露国の返納したる土地を全部引受けん事を申込みたり、其意気の盛なる、度量の大なる、真に吾人をして驚嘆せしめたり、博覧会が世界の一方に斯る戦争を控え乍ら彼の如き成功を収め得たるは、蓋し日本の如此意気を有せしに依る処多しと云ふも過言にはあらざるべし、予の茲に佩用する此勲章は日本の 天皇陛下より賜はりたるものなり、今夕の如き席上に於て之を佩用するは其当を得たるものと云ふべし
  米国人は愛国心に富む国民なる事は、予の云ふ迄も無き事ながら、日本は夫れ以上愛国心の強き国民なり、戦争の門出に其母は子に生きて帰る勿れと命ずる由、蓋し日本の強国なる所以ならん
  当市は米国商工業の中心なり、今やレールと水とに依りて当市と日本を連繋せらるれども、尚一歩進みて当市にて積込みたる貨物列車は、其儘横浜に送られて開扉せらるゝに到る事を期せざるべからず云々
次に神田男爵の英語演説あり、次に製造家組合会頭エツチ・ダブリユー・ペタァース氏大要如左演説を為す
  日米両国の文明は真に世界の模範たり
  日本の強国なる事は予の今更言ふまでも無き事なれども、其強国たる所以の一例を挙ぐれば、日露戦争の際東郷大将が、旅順攻撃の際到底陥落すべからざることを 陛下に電報したるに 陛下は予は出来ざることを為し遂ぐる事を希望する旨訓電せられたりと云ふ、上陛下にして已に如斯御志想で在らせらるゝ以上、下国民たるもの大に振はざるものあらん哉云々
次に大谷嘉兵衛氏は起ちて、明治卅七年此地に於ける大博覧会の際、予は日本出品協会々長の位置にありて、大阪の土居、京都の西村両氏と共に、此地に来り、フランシス氏・スミス氏等の多大なる同情を受けたり、此席に於て厚く之を謝する旨を述べ、次に日本勲章佩用者前市長ローラウエルス氏起ちて、予の日本 皇帝陛下より勲章を授けられたるは、予の功労の結果にあらずして、単に博覧会当時当市長の職に在りしが為めなりと、謙遜の演説を試みられたり
右畢りて十二時一同特別電車に乗じてホテルに帰る
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.285-288掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.352-388

 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
     第五節 聖路易市
十一月十日 (水) 晴
午前七時半聖路易停車場に着。午前九時十五分商人協会歓迎委員の出迎あり、直ちに特別電車にてサウザーン・ホテルに入る。同十一時自働車に分乗し国立通商銀行を訪ひ、頭取其他の案内にて、行内各部を巡視し、約二十分の後出で、有名なるシモンス金物会社を訪ふ。帝国名誉領事スミス氏重役たり。入口正面に生花にて同会社の商標を造り『ウエルカム』の文字を表はす。事務所・荷造所・陳列室等巡覧中、支配人号鈴を鳴らして、臨時非常演習を執行せしに、僅かに一・二分にして各員予定の部署に就けり。其迅速なる驚く可し。又各地行商の出張員の勤怠を一目にして瞭然たらしむる地図等執務上感嘆に値するもの多し。帰途午後一時、株式取引所に前知事フランシス氏・市長、其他との接見会に臨む。
一時半一同ホテルに帰着す。午後二時よりホテルの第二階食堂にてグリーン氏の送別午餐会を開く。同氏は米国政府より特に我が団の為に接伴委員として遣されたる人にして、現にハルピン領事の職に在り、父は日本に伝道師たること四十年、氏亦た日本に生れ従つて日本語を能くす、而も親切にして、我が団が沙市上陸以来七十有五日間、懇切を極めたる氏の接伴は、一同の深く感謝する所なり。席上渋沢男は団員を代表して左の序辞を述べ感謝の決議を朗読せり。
  ○感謝文及ビ決議前掲ニツキ略ス。
尚ほ団長は語をついで曰く
  ○前掲ニツキ略ス。
次にローマン氏は立て送別の辞を述べ、グリーン氏の健康を祝す。
次にエリオット氏は起つて、接伴員一同を代表し、送別の辞を朗読す。最後にグリーン氏は徐に口を開いて『何等功績なきにも拘らず過大なる賛辞を腸はりしを謝す、尚今後諸君が益々健康にして、且つ愉快なる旅行を続けられんことを熱望す、云々』と述べ、次にムーア氏の音頭にて同氏の為めに例の「ラララ」を三唱せり。因に云ふ、右の感謝送別の辞は、日本文を正文とし、之に英語を附して同君に贈りたり。尚ほ従来グリーン氏の扱はれし事項は、今後エリオツト氏に於て引き継ぐ事と成りたり。
午後三時マク・カラック氏より廻されたる特別電車にてホテルを発し、米国最大と称せらるゝ麦酒醸造所「アンホイザア・ブッシユ」会社を見物す。午後五時一同ホテルに帰着、午後七時特別電車にてセント・ルヰ倶楽部に向ふ。先づ一室に接見会あり、後食室にて晩餐会を開かる。商人協会会頭にして帝国名誉領事なるスミス氏司会者となり、先づ 陛下の万歳を唱へ、水野総領事は日本帝国を代表して、米国大統領の健康を祝す。次に市長クライスマン氏歓迎の辞を述べ、団長之に答ふ。次に前知事にしてクリーブランド内閣の大臣たり、又セント・ルヰ博覧会総裁たり、現に当市及びカンサス市の商人協会員たるフランシス氏は、歓迎の辞を述べたる後、曰く
    ○演説前掲ニツキ略ス。
次に神田男・製造組合会頭ペータアス氏等の簡単なる演説あり、最後に番外として、大谷氏起て、三十七年の博覧会に、日本出品協会を組織し、西村氏をして渡米せしめし際、フランシス氏を始め、スミス氏等の多大なる同情と懇切とに依つて、大なる成功を奏せり、後れ馳ながら、茲に深く謝意を表する旨を述べ、更にフランシス氏の紹介にて、日本勲章佩用者、前市長ロルラウェルス氏も一場の演説を為し、十二時に至りて散会す。
今夜十一時二十八分グリーン氏は、ペンシルバニヤ停車場より赴任の途に着く、中野・加藤両氏は一行を代表して之を見送る。
婦人の部 午前九時十五分婦人歓迎委員の出迎あり、午前中は旅館に休憩し、正午スミス夫人に午餐を饗せられ、午後某教会に結婚式の披露会に臨む。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.306-308掲載)


参考リンク