「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月8日(月) 公園、動物園等の巡覧後、商業会議所でレセプション。午後は児童音楽隊に先導され市庁舎へ行き、警察および消防隊の演習見学など。渋沢栄一は過労により両手先が麻痺 【滞米第69日】

竜門雑誌』 第272号 (1911.01) p.45-52

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月八日 月曜日 (時々雨)
午前九時青渊先生には「ジヨン・グリーン・デシユラー」「チヤーレス・エス・ヘンリー」「ダブリユー・ビー・アンダーソン」「ダブリユー・イー・バブパツク」「アール・リーカート」「エム・ビー・プリート」の諸氏の来訪を受け、ホテルに於て朝鮮稷山金礦に関する種々の談話を為られたり
午前十一時青渊先生以下自動車を列ねて二・三の公園を巡覧して動物園を見物す、東京の動物園に於ては見る事を得さる数多の動物を見たり、此動物園は一処に動物を集合せす、広き園内各処に地の利を得て散在しあるを以て、見物人は一面動物を見ると共に、樹間を静に逍遥運動の楽を得らるべし、音楽堂は園内の高地に在り、冬季奏楽を廃するも、夏季は毎夜奏楽し、為之見物人特に多しと云ふ
午後一時青渊先生には、当市商業会議所に於て催されたるレセプシヨンに臨まる、ミツチエル・ライアン将軍の歓迎辞(其大要は、過去十年間に於て長足の進歩を為したる日本実業家の代表者と、此市に相会したるを悦ふ、太平洋の水は日米両国間に分在するは、両国人をして自由に之を使用せしめむが為めなり、須らく両国の実業家は此水上に於て活潑なる貿易を為さゝるべからざるなり云々)に対し、青渊先生一行を代表して大要左の如き答辞を述べらる
  一行がシヤトル市上陸以来各地に於て熱誠なる歓迎を受けたるは、真に感謝する処なるに、新に茲に当市に於ては滞在の日子短少なるに拘らず、諸君は門戸を開放して一行を導き維日も足らざるが如く款待せられたるは、吾々の深く記憶に存する処なり、予は不幸足に豆を生じ、且身体も大に疲労を感じ居れども、此豆此疲労は此市諸君の款待の遺物なりと信するなり
  更に今朝動物園を参看して感じたる事あり、猪は能く勇猛突進する退て己れを守る事を知らず、熊は克く己を守るを知れど、攻勢を取る事に於ては他動物に劣る、牛馬は克く従順労役に堪ゆれども、攻守の態度を取る事を知らず、如此動物は凡て各特技を有するも、又之が反対の欠点を有す、天下のもの皆然り、然るに米国人は独り此特能を有するのみならず、此欠点を補ふて余りある事は、今日までの交際に於て明かにしたり、願はくは一日も早く帰朝して、米国人の懇篤なる誠意と欠点無き事を、普く我同胞に知らしめて挙国民と共に感謝せんと欲するなり云々
次に神田男爵の演説、及二・三米国人の演説あり、一時四十五分シントン・ホテルに於て商売人及製造家代表者の催にかゝる歓迎ランチヲンあり、青渊先生以下一同出席す
三時当市育児院児童より成る音楽隊を先頭にしたる同院少年士官に迎へられ、此士官の警衛の下に音楽隊を先頭して、青渊先生以下一行列を作りて市庁に於て催されたるレセプシヨンに出席す、畢りて同処に於て警察官の教練検閲を見、四時十五分消防隊の演習を見物して、同四十五分ホテルに帰る
午後七時四十五分一行の為めに特に出来したるイルミネーシヨンに、又八時十五分コロンビア劇場に案内を受けたれとも、先生には之を断はられたり、尚テキサス州に於て綿花販売に従事する藁谷英夫氏より晩餐の案内を受けられたれとも、是又断はられたり
両三日来青渊先生には双手の指先麻痺を覚えられ、甚た不愉快に感せられたるを以て、同行の医学士熊谷岱蔵氏の診断を受けられたるに、過労の結果なれは今晩より暫く夜間の歓迎を謝絶して静養せらるれば全快に至るべきも、若尚此以上過労せらるゝに於ては、世間に有勝なる余病を惹起さんとも計り難し、指先麻痺は特に注意を要すとの忠告を受けられたるも、各地の歓迎は先生をして此忠告を実施するの余裕を与へさりき
日程に基き午後九時四十分列車に帰着す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.283-285掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.352-388

 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
     第一節 シンシンナター市
十一月八日 (月) 時々雨
午前十時自働車にてホテルを発し、二・三の公園を過ぎ、動物園を見物し、エデン公園を過ぎ、午後一時商業会議所の接見会に臨む。ライアン将軍の歓迎の辞あり、団長及神田男之に答ふ。午後一時四十五分ホテルの食堂にて略式午餐会あり。三時頃当市育児院児童の音楽隊に送られつゝ市役所に赴き、此処に又接見会あり。終りて警察及び消防隊の実地演習を見物し、直に帰館す、此地には「ロックウード」と称する有名なる陶器製造所ありて、邦人白山谷喜三郎氏永らく之が技師たり、一行中参観に向ふ者多し。午後七時四十五分一同歓迎員の案内にて、コロンビヤ座に観劇し、後列車に帰る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.306掲載)


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