「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月2日(火) アーリントン墓地や要塞フォートマイヤを見学後、国務次官主催の午餐会。国立博物館、市庁等を巡り、夜はコルコラン美術館でレセプション 【滞米第63日】

竜門雑誌』 第271号 (1910.12) p.25-29

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月二日 火曜日 (晴)
午前九時青渊先生には一同と自働車を連ねて軍用墓地アーリントン及び要塞フオートマイヤ等巡見の後、砲兵隊営庭の馬場に於て、騎兵の軽乗、馬術及砲兵の砲車運動を見(其馬匹砲車を運用するの妙なる曲馬を観るの観あり)畢りてホテルに帰り、衣を更めて再度一同と共に国務次官ウヰルソン氏の催されたる公式午餐会に臨む(此日は先きに国務卿ノツクス氏より案内を受けたりしが、同氏夫人の叔母が死去せられ、恰も本日其葬式に相当したりとて、次官代りて之を催されたるなり)ウヰルソン氏夫妻は曾て在日本米国大使館に一等書記官たりし事ありて、我が国情にも通じたれば、一行の待遇にも実に意を用ひられたり、食後ウヰルソン氏は起ちて一行に対し歓迎の辞を述べ、且費府造幣局にて製造せし金牌を 日本天皇陛下に伝献せんことを青渊先生に嘱せられ、尚ほ一行にも同型の銀牌を贈与せられたり、依て青渊先生は一行を代表して答辞を述べ、且 天皇陛下に金牌伝献の事を謹んで快諾せられ、尚一行に代りて銀牌の贈与を謝し、斯くて主客共に大統領閣下 天皇陛下の万歳を三唱して、君が代の奏楽中に散会す
夫れより一行は各処の名物見物に赴かれたるが、青渊先生にはホテルに帰りて休息せられ、夜は埴原書記官の招待に依り、メトロポリタン倶楽部の晩餐会に臨まれ、八時半よりコルコラン美術館のレセプションに出席せられ、同館見物の後帰宿せられたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.247掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十四節 華盛頓
十一月二日 (火) 晴
午前九時一同自働車にて、軍用墓地アーリントン、及び要塞フォート・マイヤ等巡覧の後、野戦砲兵隊営内の馬場にて、其の馬術演習を見物す。帰館後衣を更めて、一同国務次官ウィルソン氏の公式午餐会に臨む。元来今日は国務卿ノックス氏主人となりて、我が一行を招待する筈なりしも、氏の姻戚に不幸ありしが為に、俄に次官之に代れるなり。主人夫妻は曾て在東京米国大使館に一等書記官たりしことあり、我が国語にも通じ居れば、一行の応接にも亦頗る意を用ひたるを認む。食後ウィルソン氏の歓迎の辞に次で、費府造幣局にて製造せる金牌を、渋沢男を通じて 陛下に捧呈せんことを依嘱し、尚ほ一行にも同型の銀牌を贈らる。かくて 天皇陛下・大統領の万歳を唱へ、君が代の奏楽中に散会す。
午後は一同国立博物館、及市庁を見物し、随意ホテルに帰りて休息す。今夕は埴原一等書記官の招待にて、団員中の十数人はメトロポリタン倶楽部に晩餐を饗せられ、基督教に関係ある者数人は青年会館を訪問す。午後八時半よりコルコラン美術館に接見会あり。一同出席。終りて同館内を見物して帰宿す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.257-258掲載)


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