「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月30日(土) デラウェア川を下り工場等を見学。夜は製造業者倶楽部主催の晩餐会 【滞米第60日】

「フヰラデルヒア製造家倶楽部」徽章

「フヰラデルヒア製造家倶楽部」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月三十日 土曜日 (晴)
午前九時青渊先生以下一行、市役所に於ける市長のレセプションに臨む、市役所より先生以下一行自動車を駆りてチエストナツト街の波止場に到り市長の厚意に依り一行に供用せられたる汽船スプリングフイルド号に搭乗して、デラウエア河を下り、沿岸に於ける各種工場を望見し、鋸を製造するヘンリー・デストン会社に到りて上陸し、支配人の案内にて一室一工場剰す処なく視察を遂ぐ、先生は日本文の製材家必携と題せる書物の寄贈を受けられたるが、如何に同社が其販路拡張に勉むるかは、其日本文の書物にて知るに足る、畢りて再度乗船、リーグ島の合衆国海軍造兵廠を一巡して、午後五時ホテルに帰宿す、午後六時青渊先生以下同ホテルに於て開かれたる製造業者倶楽部主催の晩餐会に臨む、此会場の四囲のボツクスには此の盛宴を見んとて、参集せる盛装の淑女花の如し、宴将に終らんとするや、例の如く演説始まれり、同部会頭フオルウエル氏は起ちて先づ歓迎の辞を述べ
  日本実業家の来遊は米国の為め非常の利益なり、当実業の関係さへ深ければ国交に何等碍妨を来たす事無きは明かなれば、両国の実業家は此意を以て益親交を厚くせざるべからず云々
次ぎに州知事スチユアート氏は
  日本実業団の最も尊重せらるゝ、伊藤公爵の死を悼むとて、公爵の為めに弔詞を述べ、転じて一行の来遊は日米両国親善の要楔なり、日本の進歩及成功は過る日露の戦争に於て顕著なるが、平和に於て得たる成功及進歩は夫れ以上なりとす、諸君が米国商工業に就て学ぶ処多ければ多き程、両国の為めに利益大なるものなれば、此上十分の視察を希望するものなり云々
次ぎは上院議員ペンロース氏
  余は日本に対し最も尊敬の意を表するものなり、東洋に於て最も若き日本人を茲に歓迎するは、衷心悦に堪へざる処なり、蓋し日米両国は天性互に親和すべき関係を有す、今後パナマ運河の開鑿せらるるときは尚一層親密の度を増加すべき事明かなりとす、政治上の使節は是迄来りたる事あれども平和の使節は今回諸君を迎ふを始めとす、此点に於て特に諸君を歓迎するものなり、世界の貿易は大西洋に限定せらるゝものにあらず、費府市の製造業者は、此若き新進の日本を華主とすることに勉めさるべからず云々
次ぎは青渊先生
  一行の当市に到着したるに付き、盛大なる歓迎を受けたるを深謝す昨日来一行は手を分ちて当市の有名なる工場を見物したるが、時日の僅かなると反対に工場の甚だ多き為めに、十分見物する事能はざるは頗る遺憾とする処なり、今は又茲に偉大なる饗宴に招かれ、花の如き美人に囲繞されつゝ演説を試むるは、余の特に光栄とする処なりと前提して、一行渡米の理由を陳述し、且日米両国貿易の発達は全くペリー提督の我日本を開かれたるに基くものにて、爾来両国の貿易は統計に依るも年々増進する事明かなれば、将来も尚益増進する事は疑を容れざる処なり
  米国が日本に輸出する物品少くして、反之日本より輸入する物品の多きは、米国に取り不利益なりとの説を称ふるものあれども、余は斯く信ぜざるなり、日本より米国に輸入する物品は原料品なるに付き、米国は更に之を精製して十分の利益を得らるゝ事明かなり、願はくは費府の実業家は各自の事業にのみ熱心せられずして、日本の事業にも注目せられ、吾々が多忙なる事業を放擲して当国に渡来したると均しく、日本に来遊して商工業を視察せられん事を望む
  費府は其字に於て兄弟に親密なりとの意味を有すと聞く、当地の諸君は兄弟御親しむの友義を、更に日本に迄及ばさん事を望む、四十余年前の日本の使節は当地に来り此ホテルに投宿したりと聞く、今又我々一行が平和の使節として、茲に投宿したるは奇なりと云ふ可し、云々
次ぎは市長レイバーン氏
  千八百六十年、余の幼少の折日本の使節の当府に来りたるを見たるが、茲に開かれる宴会は、当時の歓迎より尚一層勝れたるものなる事と信ず
  渋沢男爵の達識に付て大に感服したる辞あり、即ち同氏の談話に、秩序的に発達したる市は永久に衰ふる事無しとの言は、達識者の言なりと云ふべし、日本人は皆同氏の如く達識の士なり、将来の進歩発達期して待つべきなり云々
次ぎは神田男爵
次ぎは判事バアリントン氏
  米国の紳士は、内に在りて妻君の永き演説を聞かさるゝ為めに、公開の席に於ては其鬱憤を晴らさん為めに永き演説を為す、以之短き演説を為す人は無妻の人なる事を証明するものなりとて、滔々数千言何時尽くべしとも思はれざる程にて、熱心に日米両国の貿易発達を計り両国は益々親交を厚うせざる可からさる事を論じたり
次ぎに州知事スチユアート氏は起ちて
  七百万の本州の人民を代表して、茲に諸君を歓迎したるが、此市の独立閣は米国自由憲法の発現地にして、最も古き歴史を有するものにして、此地と日本との関係も亦最も深き事なれば、今回諸君の来米を機として、両国の関係を相互実業家の力に依つて結び付けん事を欲す云々
次ぎにワナメーカー氏の演説ありて、午後十二時半解会
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.244-246掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十二節 フィラデルフィヤ
十月三十日 (土) 晴
午前九時半、自働車にてチェストナット街の波止場に至り、市長の厚意によりて用意されたる汽船スプリング・フィールド号に搭乗しデラウェア川を上下して、附近の港湾、ヘンテーデ・イーストン鋸製造所、水道貯水所、海兵団等を訪ひ、河岸の勝景を探り、再びチェストナット街に上陸し、市役所を訪ひ、市長レイバーン氏以下に接見しホテルに帰る。午後六時よりホテル内に晩餐会あり。席上製造家倶楽部会頭フォルウェル氏・上院議員ペンローズ氏・市長レイバーン氏・州知事スチュアート氏・判事バァリントン氏、及ワナメエカー氏等の歓迎演説あり、渋沢・神田両男之に答ふ。深夜散会。
晩餐会はホテルの大食堂に於て開催せられ、其室内の美麗なるのみならず、装飾亦善美を尽せり。
婦人の部 午後四時ニューセンチュリー倶楽部にて、茶菓の饗応あり。夜はホテル別室にて歓迎婦人側の招待を受く。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.256-257掲載)


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