「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月23日(土) ボストン到着。フォアリバー造船所、ウォルサム時計会社、ハーバード大学などを見学。晩餐会ではモースらによる歓迎の辞 【滞米第53日】

竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
[10月]廿三日 土曜日 (曇)
午前六時半ボストン市に向て発車、同八時到着、朝食の後一行は二隊に分れ、甲はフオーアリバー造船処参観、乙はウオルサム時計会社参観なり
青渊先生は甲を希望せられ、八時廿五分特別列車に搭乗して、クヰンシーに於けるフオーアリバー造船処に到り、折柄建造中のノースダコタ(米国軍艦二万噸廿一節)を観覧し、十一時同社にて略式午餐の饗を受け、社長バウルス氏の歓迎の辞に対し、青渊先生は一行を代表して謝意を述べ、建造中のノースダコタを見て一入悦びに堪へざるなり、蓋し軍艦は平和の保障なり、吾々一行は平和の使節なればなりと結び畢りて十二時半クヰンシー市を発してボストン市に帰着し、青渊先生は直に自動車にてナシヨナル・シヤームツト銀行頭取ウイリヤム・エーガストン氏の案内にて、同銀行の営業場・倉庫・損札引換所等を見[、] 夫れよりハーバード大学に到る(同大学はケンブリツヂ市に在りて、ボストン市と川を隔てゝ相対せり)茲にて乙の人々其他の一行と相会す、総長不在の為め書記官長グリーン氏(同行のロージヤー・グリーン氏の令兄)代理として一行を歓迎し、先づレセプシヨンあり、次で同氏の歓迎の辞、及新に本年より新設せられたる同校商科大学々長アボツト・ラウレンス・ローウヰル氏の同大学設置の必要なる演説あり[、] 青渊先生は一行を代表して簡単なる挨拶を為し、終りて教授室・食堂等を巡覧の後、一行校庭に於て撮影を為し、更に紀念室に到りて、同校創立以来の総長及同校出身者にして米国各地の戦争に参加して名誉の戦死を遂げたる人々の写真を見たり、夫れより同校運動場に出でて同校対ブラオン大学のフートボールの競技を見る、ブラオンの零に対し同校の十一点にて終了を告けたり
斯くて青渊先生は、午後五時ホテル・トレインに投宿せられ、午後七時半より、アルゴン・クイン倶楽部に於ける、商業会議所主催のレセプシヨン、及晩餐会に臨まる、席上ペリー提督の孫にて同会頭たるゼームス・ジヱー・スタロー氏は歓迎の辞を述べ、且此地はペリー提督出生の地なる事、人口稠密なる事、耕作地の少き事、天然の富源に乏しき事、気候の不順なる事を挙けて、日本に酷似したる点甚だ多くして、縁故特に深ければ、将来日本との親善は尤も期待する処なる旨を述べ、次きに州教育会議々長フイツシユ氏の演説、及日本美術品の蒐集を以て名あるモールス氏の、美術上より日本を賞揚したる演説ありしに対し、青渊先生は一行を代表して、此一行は日米両国の通商貿易の発達を計らんが為めに、国民より派遣せられたる者なり、此地に来りて驚嘆したるは、西部の天然の富を有する地方に比して、此地が学問と勉強とに依りて如斯発達したるに在りとす、之を樹木に譬へんか[、] 急に生長したる樹木は動もすれは倒れ易し、反之雪に耐へ風に忍びたる者は、健固なる状態を以て且其上に一層の雅致を添ゆるなり、此地は恰も風に忍び雪に耐へたる樹木の如し……吾々は帰国の上は、米国各地に於て受けたる歓迎及視察の状況は之を国民一般に知らしめ、両国の親善を厚ふせん事を期すべし、併し米国の富みし理由の根原は之を日本に移して応用すべきも、米国亦弊害なしと云ふべからされば、此点丈は応用せさる積なり云々と述べ、夫れより神田男爵の簡単なる英語演説あり、十二時畢りて帰宿せられたり
  本社会員浅野総一郎氏令息浅野良三氏、当地大学予科に在学、此日青渊先生を来訪して、始終各処に同行案内の労を取られたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.237-238掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第六節 ボストン市
十月二十三日 (土) 曇
午前八時ボストン停車場に着、同八時廿五分歓迎委員の案内を受け全団を二隊に分ちて、直ちに見物に向ふ。第一隊は午前八時半、商業会議所特別仕立の列車に乗換へ、クヰンシーに向ふ。同所に「フォーア・リバー」造船所を巡覧すること約二時間、同十一時半、同所内に於て午餐を饗せられ、十二時ボストン市に向て帰り、零時三十分ハーバート大学に向ひ、第二隊に会す。第二隊は八時半出迎の自働車にて、ウォールサム時計製造会社に向ひ、正午迄見物、同会社に午餐の饗応を受け、零時半同じくハーバート大学にて第一隊に合す。第一隊・第二隊及び婦人側の三隊は、ハーバート大学内に合し、総長代理書記官長グリーン氏・商科大学長ゲイ氏の歓迎の辞を受け、後紀念館前庭に撮影を為し、大学構内、及ケンブリッチの各地を自働車にて見物、二時五十分、ハーバード遊戯場に至り、同大学対ブラオン大学のフートボール試合を見物し、終りてホテルに帰る。午後七時アルゴン・クイン倶楽部に至り、接見会の後、商業会議所主催の晩餐会に臨む。席上ペリー提督の孫にして、現に当市商業会議所会頭なるスタロー氏・州学務委員フィツシュ氏・モールス教授等の歓迎の辞あり、渋沢・神田両男答辞を述ぶ。散会夜半に及べり。
婦人の部 午前八時廿五分出迎の自働車にてチュレーン・ホテルに入り、午前十時半自働車にてケンブリッチに向ふ。午前十一時同地に於けるロングフェロー詩伯の遺邸を訪ひ、同氏の息女ダナ及スロープ夫人より饗応を享く、正午十二時コロニアル倶楽部にて午餐を饗せられ、同午後一時十分ハーバード大学校内に向ひ、同所にて男子連と会し、其後は共に行動す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.251掲載)


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