「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月22日(金) イエール大学(ニューヘブン)で紀念章を、ゴーハム銀器製造会社(プロビデンス)で紀念銀牌を贈られる。岩本栄之助、父の訃報で帰国 【滞米第52日】

「ゴルハム銀器製造会社」紀念銀牌

「ゴルハム銀器製造会社」紀念銀牌
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月廿二日 金曜日 (晴)
午前一時ニユーヘブン市に向て発車す、午前四時同地着、朝餐の後八時半当市商業会議処会頭ウルマン氏、市長マルチン氏、其他歓迎委員の出迎を受け、青渊先生以下一行自動車に分乗して、重なる工場会社に向たるも、此地に於ける時間僅少なりしを以て、単に訪問に止めて内部の参観を廃し、直にヱール大学に到り、総長ハドレイ氏に案内せられて講堂に到り、着席の後同氏は歓迎の辞を述べ、且同校創立二百年祭(即今より八年前)に調製したりと云ふ紀念章を青渊先生に贈られたり、此紀念章は日本に於ては伊藤公爵に一個贈りしのみなりと云ふ、青渊先生は一行を代表して歓迎に対する謝辞を述べ、且名誉の紀念章の贈与を厚謝するの意を述べられ、右畢りて午前十一時停車場に帰着し、直にプロビデンスに向て発車す
岩本栄之助氏は厳父の訃音に接し、此地にて一行に別れ、大西洋より西比利亜鉄道にて帰朝せり
午後一時プロビデンス市に到着、歓迎委員の案内にて青渊先生以下一行自動車にて市役所に到り、商業会議所会頭フイルド氏の歓迎の辞に対し、先生は一行を代表して答辞を述べられ、次てロードアイランド州庁に向ひ、知事と会見し、再度自動車に分乗して、工場・製造処・公園等を巡覧し、午後四時ゴールハム銀器製造会社に到り作業の状態を視察し、同社食堂にて茶菓子の饗を受け、且紀念銀牌を贈与せらる青渊先生は社長の歓迎の辞に属して一行を代表して答辞を述べらる、後一先づ列車に還り、一同服装替の上、特別電車にてスクアンタム倶楽部に到り、レセプシヨンの後盛大なる晩餐の饗を受く、商業会議所会頭ナイチンゲル氏起ちて歓迎の辞を述べ、且此ロードアイランド州の産業に付ては聊か誇る事を得べきも、実は吾々の誇る処は産業に付てに非ずして人間に在りとす、過刻ゴールハム会社々長は渋沢男爵の問に対し、同社の隆盛は資本にあらずして人間の知識にありと説明せらたれるが、真に我意を得たるものなりとす、日本実業団一行は日米両国に偉大なる関係を生ずる事は余の確信する処なるが、此関係は種種の方法に依りて密接ならしむる事、恰もブルクリン橋が種々の材料に依りて強く耐ゆるが如し云々、夫より州知事ポツサア氏・市長フツチヤー氏・ブラウン大学総長フオンス氏・法律家ベーカア氏交々起て演説を為す、青渊先生は一行を代表して大要左の如き演説を為す
  一行に対し工場其他を開放せられ、且今夕の饗応を受たるのみならず、懇切なる辞を受けたるは、一行の大に感謝に堪へざるなり
  日本の開国の端緒を開かれたるコンマンドル・ペリー氏の功績に付ては、諸君の言を俟たす吾々の大に感謝せんと欲したるものなり、否単に吾々のみならず、日本人の総てが其功績に付き深謝する者なり、七年前日本の久里浜に於て同氏の碑を建たるは、其功績を忘れざるが為にあらずして、之を忘るゝ事能はざるが為なりと解釈せられん事を望む
  ロードアイランド州を小なりと云はれたるは、少く謙遜の言なりと思はる、日本国は既に小なり、人又小なりと雖とも、小なりと云はるゝを厭ふものなり
  蛤の焼き方は日本人に於ては真似る事能はさるべしと市長は言はれたるも、日本人は総て何事も真似るものにあらず、現に吾々の洋服を着するも、是只便利上の事にして、洋服を着したりとて心まて真似るに非ず、蛤の焼き方に付ても、より良き材料を、其方法に依りてより良き料理を作らん事は、吾人の希望なり、国家の進運は知識の進歩に在りとブラウン大学総長の御演説に対して、予の深く首肯する処なり、諸君の厚意を十分感謝する意を、時間の少き為め茲に披瀝するを得ざるは、遺憾とする処なり云々
今夕の宴会には当地名産の蛤料理を始め、特に魚類を選みて饗し、又余興に花火を打揚げたるは、主人側の心尽さこそと感せられたり、午後十一時茲を辞し、再び電車にて停車場に至りて列車に搭乗す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.236-237掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第四節 ニューヘブン及プロビデンス
十月二十二日 (金) 曇
午前四時ニューヘブンに着、八時半当市の商業会議所会頭ウルマン市長マルチン、其他歓迎委員諸氏、及エール大学諸教授の出迎を受け、一同は出迎の自働車に分乗し、まづ市内見物に向ふ。此際予定の時間僅少なるを以て、工場会社を訪ふも内に入らず、只来意を告ぐるに留む。而も各所の歓待熱誠にして、門前に我が国旗を掲げ、一々記念品を贈らる。正午前エール大学に達し、一同総長室に至り総長ハドレイ氏に面会す。総長歓迎の辞を述べ、紀念章を団長に贈る。此紀念章は八年前同校創立二百年祭の際之を製し、伊藤公に一個を贈れるものなりと云ふ。一行中松方・西池二氏は、曾て当校に在学せし関係あるなり。
午前十一時プロビデンスより出迎の商業会議所会頭フィルド氏、及役員等と同乗、ニューヘブンを発し、午後一時五十分プロビデンス市に着す。時に在留日本人より珍らしき花籠の寄贈あり。
下車後直ちに商業会議所員、及官民一同の案内にて、市役所を訪ひ商業会議所会頭フィルド氏の歓迎の辞を受け、次でロードアイランド州庁に向ひ、知事ポッサア氏と接見し、後、庁内各室を参観し、再び自働車に分乗して、工場・製造所・大学・師範学校・公園等を巡覧す。午後四時頃ゴールハム銀器製造所を訪ひ、各分工場を視察す。同会社食堂にて、茶果の饗応あり、又た銀製紀念章を贈らる。
当年ペリー提督日本と条約を結んで帰りし時、同一行の贈られし紀念章も、当会社にて製造せしものなりと云ふ。後一とまづ列車に帰り、更に特別電車にて、三哩を隔てたる勝景の地、スクアンタム倶楽部に到る。まづ階上にて接見会あり。後大食堂にて晩餐の饗応を受く。会頭ホラティーオー・アール・ナイチンゲル氏、州知事ポッサア氏、法律家ベーカア氏、市長フムッチャー氏、ブラウン大学総長、フォーンス博士等、代る代る起つて歓迎の辞を述べ、渋沢団長答辞を述ぶ。当州は恰かもペリー提督出身の地の事とて、主客の談屡々之れに及び、当時を追懐せしむる者多し。又今夕の宴会には当地特産の貝料理を初め、専ら魚鰕の類を選み、余興に花火を打揚ぐるなど、従来他に見ざる所なりとす。午後十一時同倶楽部を辞して再び電車にてユニオン停車場に送られ、翌二十三日午前六時半ボストン市に向つて発す。
是より先、大阪の岩本氏は紐育出発の間、親父の訃に接し、勿皇行李を整へニューヘブンにて一行と別れ、直に帰朝の途に上りしは、頗る同情に耐へざる所とす。
婦人の部 午後プロビデンス婦人倶楽部の接見会に臨む。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.250-251掲載)


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