「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月16日(土) ジャパンソサエティーとニューヨーク平和協会の合同午餐会で、ハリスゆかりのアメリカ国旗が会場を飾る。夜はピッポドローム劇場で観劇 【滞米第46日】

「紐育平和協会」徽章

「紐育平和協会」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.44-51

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月十六日 土曜日 (晴)
青渊先生には午前中を接客に忙しく経過せられ、午後一時より一行を率て日本協会及紐育平和協会の合同午餐会に出席せられたり、午餐終りて会長紐育大学総長フヰンレー氏歓迎の辞を述べ、尚中央正面に飾られたる星の数三十一の古色蒼然たる米国旗は、其古、最初の駐日公使たりしタウンセント・ハリス氏が、江戸に於て始めて自ら作り掲げたるものなり、又其下の手紙と目録及巻絵の箱は、ハリス氏が病気の時幕府より見舞として侍医伊東典薬頭を遣はし、特に贈られたる見舞状と鶏卵の目録及び料紙箱等なりと説明せられたり、依て青渊先生には一行を代表して左の演説を為されたり
  会長及淑女諸君 合衆国と我が帝国との国交を益親睦ならしむるを以て主義とする日本協会と、人道の上より世界の平和を以て目的とする平和協会の有力なる諸君の招請に応じて、我実業団の一行が今日此盛讌に臨席するを得たるは、余及余の一行の共に之を光栄とし愉快として深く感謝する処なり
  余等一行の今回貴国に渡来せるは、昨年貴国太平洋沿岸商業会議所の諸君を我が帝国に歓迎して、幸に諸君の満足を得たるに起因し、今年は又其懇切なる款待に応じ、且此好機会を利用して貴国各地の商工業の真想を知悉して、以て今後日米両国の国交上貿易上に一大増進を謀らんとする余等一行の微衷は、已に諸君の多く了知せらるる所ならんと思惟す
  凡そ親睦と云ひ平和と称するも、只両者相附和雷同するに依りて永久に之を持続すべきものにあらず、其間宜く抜くべからざるの基礎なかるべからず、之を以て余は事の既往に属するを顧みず、特に日米両国間の国交に就て聊か余が平生の所感を開陳せんとす、是則斯る特色ある両協会諸君の会同に対しては、敢て無用の弁たらざるを信ずればなり
  日本が世界の現状を知るを得たるは、実に五十六年前貴国のペリー提督が我が浦賀港に渡来せられて、寛厳宜しきを得たる手段を以て我が三百年来の長夜の夢を破られ、尋てタウンセント・ハリス公使が勇敢懇切なる処置に依りて、日米両国の修交条約を締結せられたるは、余等日本国民全般の忘れんとして忘るべからざる記念にして永く恩恵を感銘する処なり
  然るに、当時我が同胞の有志者が、之に対して嫌悪の念を挟み、或は攘夷を唱へ、或は鎖国を説く者の多かりしは、他なし、徳川幕府三代の時に於ける鎖国の原因が、欧羅巴の或る国には私利の為め他国を侵略せんとする野心ありと信ぜしに出てたると、嘉永安政の頃は幕政大に衰へて、其措置天下の人士を安んぜしむる能はざるとに依りたるものにして、人道の為めに隣邦を誘導せんとする貴国の好意を了知せざるに出でたるなり、是故に維新の政府開かるゝに当ては、当年鎖港を主張せし志士論客皆開国進取の率先者となりたるは決して其説の自家撞着したるにあらずして、其知識の先後ありし所以なり、現に我邦に於て元勲と称せらるゝ諸公の経歴に於て実証するに足るものにして、余の如きも亦其一員たるを公言するに憚らざるなり
  惟ふに真正の親交は、互に能く其事情を知悉して、相恕し相愛して益々其親密を進むるにあり、然り而して国交の親善も個人の交誼も利益を共にするにあらざれは、決して永遠を期すべからず、是れ余等実業家の最大責任にして、而して実業団一行が今回の旅行の如きは、蓋し此趣旨を貫徹せんと欲するに外ならざるなり
  余等一行が貴国に到着せし以来、既に五十日に近くして、其間貴国の各都市を歴訪する事実に二十六ケ所なりとす、而して到処諸君の深厚なる歓迎を受けて、独り旅行の愉快を取るのみならず、悉く門戸を開きて、雄大豊富なる各会社工場等を視察せしめたるは、余等の深く謝する処にして、余等は今回の旅行を以て細かに貴国の事物を知悉し、帰国の後普く之を我邦の同人に報告し、其天与の豊歉と実力の懸隔とを顧みず、奮励一番相提携して以て東洋の天地を開拓し、其文明を進め、其利益を増して、余等が負ふ所の天賦の任務を尽さんと欲す、是れ蓋し両協会の趣旨に副ふものにして、満堂の諸君も亦異議なきものと信ず、茲に卑見を陳べて諸君の清聴を煩はし重ねて今日の歓待を深謝す
右の青渊先生の演説は、同行の米国側委員グリーン氏通訳の労を取り次きに頭本元貞氏・神田男爵・ノツクス博士(日本協会代表)クラーク教授(平和協会代表)の演説あり、夫れよりノツクス博士は起ちて青渊先生を日本協会の終身会員に推選するの動議を提出し、同協会員一致を以て之を賛成決議したるを、先生には快く之を承諾せられたり[、]午後五時解散
午後八時より当地正金銀行支店支配人今西兼二氏の招待にて、青渊先生以下一行ヒツポドロム座の見物を為す(此座は明治三十八年の開場にて、世界第一の安全にして壮麗なる最新式の建築なり、而して之に要したる費用五百五十万円にして、五千二百人の観客を裕に収容する事を得、舞台の横幅二百呎、奥行百十呎、背景用の幕幅二百十二呎、高さ八十五呎、其大袈裟なるさすが米国式なりと感心したり)演劇は日本旅行五幕、日本に渡航せんとするクツク大佐の率ゆる団体門出の光景、此幕にて真物の自動車、二頭曳の馬車、自転車等縦横に舞台上を馳せ、黒煙を吐きつゝ進行し来れる汽船は舞台上の紐育の埠頭に碇泊し、其仕掛の大なる実に劇場に在るの感を有せざるに至る、次きは伊太利ヴヱニスに於ける某伯爵令嬢と船員との恋目出度叶ふの段、次きはニユージーランドに於ける怪神の住窟の光景、及同地人の舞踏にて終了を告けたるが、此の間に二百五十人の美装の女兵出てて分列式を為し、又は真物と異なる無き合衆国の兵隊一中隊が銃剣を肩にして調練などなし、又は舞台の中央に、真の滝長三丈幅一尺位のものを出来し、滝壺よりは美装の美人が浮き上りて舞台に出てて舞踏し、又舞台の美人は楽隊に歩調を揃へて此池水に平然として列を乱さず進入するなど、一として驚かざるもの無かりき、午後十時半ホテルに帰宿
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.218-220掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月十六日 (土) 晴
午後一時日本協会及び紐育平和協会司会の午餐会をホテル内に催さる。会するもの男女三百余名、紐育市立大学総長フヰンレー博士司会、席上渋沢男の演説(グリーン氏通訳)神田男・頭本氏等の演説あり、又米人側よりはノックス博士(日本協会代表)クラーク博士(平和協会代表)の演説あり。此日会場の正面に、タウンセンド・ハリス氏が初めて江戸の米国公使館に掲げたりと云ふ、当時の米国国旗(日本の材料にて作りたるものにして、現に紐育市立大学ハリス館所蔵)を飾りたるは、主人側の深く意を用たる処にして、一行為に今昔の感に堪へざりき。席上渋沢団長の演説梗概左の如し。
   ○前掲ニツキ略ス。
同夜は正金銀行支店の招待にて、一同ヒポドローム座を見物す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.226掲載)


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