「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月21日(火) アメリカでの報道「大統領の演説は、友誼貿易の共同及産物の交換保証に、最後の印章を刻したるものなり」(ワシントン・ポスト)

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.591-599

 ○第三編 報告
     第七章 米国大統領と会見に関する米国新聞の論評
 ミネアポリスに於ける大統領との会見に関し、米国諸新聞の批評中九月二十一日の華盛頓ポスト及紐育トリビューンの社説は、米国の代表的大新聞の論調を徴すべきを以て、茲に訳載す。
  華盛頓ポスト社説
    タフト氏の日本的勢力
大統領タフト氏は其旅行中、実業視察の目的を以て米国を旅行しつゝある日本商工業者の一団と会合したり、大統領は右日本実業団の各員と、温情を以て会心的の会話を交換し、例の天真爛漫なる態度を以つて、日米両国間に存在する友情を表示し、尚ほ東洋のヤンキーをして「西洋のヤンキー」の技術特長を研究し、尚ほ其内に於て採るべく学ぶべき所あらば、之れを採用することを歓迎する旨を公言し、以て此会合をして国際的の性質を帯ばしめたり、大統領の演説の一節に曰く「日本は其富源を開発し、其国民をして偉大にして且つ成功せる商業国民たらしめんが為めに、目下奮闘しつゝあり。日本は戦場に於いて其技倆を示したるも、今や兵馬の戦は已に止み、専ら平和の勝利に急ぎつゝあり。而して我等米国人は、日本が此平和の勝利を得んことを希望して止まず、されど我等米国人も亦能ふべくんば、日本と対峙して下らざるやう努めざるべからず。」云々
日本と米国との間に於ける不和(想像的)を煽動し、誇張捏造する一派の愚劣なることを知るもの、大統領タフト氏に優るものあらざるべく、斯る煽動的風説を打消すに努めたること、亦大統領に勝るものあらざるべし。
タフト氏は日本を訪問すること六回、而して、日本人の目的及希望を識ること、同氏に優るもの亜米利加人に極めて少なし。氏が最近極東に赴きたる時には、当時の大統領(ルーズヴェルト氏)よりも平和の使命を齎らしたるものなりき。今回氏の発表せし意見は全然其当時同氏の齎したる意見と同一の調子なれども、而も今回の其発表は、米国の元首其人の口より直接に出でたるものにして、実は米国民の誇るに足るものあり。何となれば本件に関する大統領の確信は、米国民九千万の一致せる裏書を有するものなればなり。
大統領のミネアポリスに於て為したる演説は、両国間に存在する友誼貿易の共同及産物の交換に関する保証に、最後の印章を刻したるものなり。仮令大統領が今回の旅行中、日本との友誼を鞏固にする以外に何事をも為し得ざりしとするも、今回の旅行はタフト氏にとりて、亦有益なるものたるを失はず。云々
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.149-150掲載)


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