「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月20日(月) ミネアポリス市役所で歓迎式。ミネソタ大学、公立図書館、日本美術コレクション等を見学 【滞米第20日】

「ミネアポリス商業会議所」徽章

 「ミネアポリス商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月二十日 晴 冷
午前七時起床、入浴シ、後朝飧ヲ食ス、午前十時頃ヨリ市役所ニ抵リ市長ノ接見アリ、市長ノ演説ニ対シテ答辞ヲ述フ、夫ヨリ(勧)工場ニ抵リ、場内一覧後午飧ス、食後ミネソタ州立大学ヲ一覧ス、前州長タリシ人案内セラル、畢テ旅館ニ帰リ晩飧ヲ為ス
夜十時汽車ニ搭シテ暁ニ発車ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.142掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.30-38

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
九月二十日 晴 (時々夕立) (月曜日)
朝餐を終り午前八時半青渊先生以下自働車に分乗して、市役所のレセプシヨン・ルームに於て催されたる歓迎式に臨む、市長ヘーンス先づ歓迎の辞を述べ、且日米両国は交通開始以来一回も紛擾を醸したる事なし、蓋し日本人は事物に当て、其根底迄極めざれば止まざるの勇敢なる気象を有す、此気象は日本の急速なる進歩を来したる所以なり、将来日米両国は互に相輔助して世界の文明を進むる事に尽力せざるべからず、云々と説き、青渊先生は一行を代表して、合衆国の北西九州の要地を占むる此市より、昨日来深厚なる歓迎を受けたるを謝す、只今市長より、日本人は事物の根底まで貰徹せざれば止まざるの気象を有すとし讚辞を受けたるが、此気象は米国のペリー提督渡航以来勇敢にして智略に富む貴国人より享有したるものなれば、市長の讚辞は其儘之を貴国人に呈せんと欲する処なり云々と答辞を述べられ、夫よりミネソタ州立大学を参観す、タフト大統領の先生なりしと云ふ校長シラスノースロプ氏の案内にて、折柄学生集合して朝の祈祷を為せる講堂に到り(神田男爵英語演説を試む)夫れより言語学科・教学科・理学科教室及実験室等を参観したり、此大学の評議員は九名にして、学生の数現在千四百名、内女生六百名なりと云ふ、大学を辞して十二時ドナルドソン商店(デパートメント・ストーア)のチー・ルームに到り、商業会議所の催にかゝる午餐の饗を受け、午後二時市立図書館を一覧す、市内に二十五の分館を有し、現在書籍の数二十万巻なりと云ふ、此日の縦覧人は婦人八分男子二分なりしが、蓋し男子は日中多忙なれば、多く居宅に借来り夜間読書するなりと云ふ、小供室に至れば十五・六以下と思はるゝ児童数十人熱心に勉強しつゝある様を見たり此図書館の入口及エレベーターに天気予報を掲記しありたり、此処を畢りてブラツド・ストリート氏の邸に至り、其愛好の日本美術品を見る、同氏は頗る日本贔屓にて、日本古代の美術品と自称する書画彫刻物等を室内に陳列して、一行の観覧に供せられたり、此処を辞して市の住宅地及公園を周遊し、午後七時ホテルに帰着す。
此日朝来青渊先生の為に自働車を供用せられたるセキストン氏は、大の日本贔屓にて、先生より種々日本に関する談話を聞き、最後に自分には双生の女子二人あり、今はワシントンの学校に在学中なるが、之を残して日本に旅行するも心配なれば、此二女子が卒業の上は夫婦と此二女子と四人にて日本を旅行し、青渊先生を訪問すべしとて名刺を交換して別れたり。
夜ホテルに於て晩餐の後、十時汽車に投す。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.147-148掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.159-173

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第十一節 ミネアポリス
九月二十日 (月) 晴
午前九時一同は出迎の自働車に分乗し、先づ市役所を訪ひ、市長ヘイネス氏及市吏員と接見し、同九時半再び自働車にて、各工場を巡覧す。又教育家側は州立大学を視察し、同十一時四十五分一同ドナルドソン・デパートメント・ストア茶室に於て、昼の饗応を受く。
午後二時過ぎ、再び自働車に分乗し博物館其他を巡覧す。同氏は熱心なる親日派の人にして、日本の骨董物貴重品を蒐集すること頗る多し。同五時半同家を辞し、自働車にて市内の住家区域及公園等を過ぎ、七時ホテルに帰る。今夜は何等の催しなく、各自随意に列車に帰り、翌朝午前五時三十分当地を発す。
婦人の部 午後六時ルース夫人宅にて茶菓を饗せらる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.148-149掲載)


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