「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月4日(土) アラスカ・ユーコン太平洋博覧会の日本日(Japan Day) 【滞米第4日】

シヤトル博覧会内森林館前の実業団

「シヤトル博覧会内森林館前の実業団」
巌谷小波著『新洋行土産. 上巻』(博文館, 1910.03)巻頭グラビア掲載)

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月四日 晴 暑
午前七時起床、入浴シ、畢テ支度ヲ整ヒ事務室ニ抵ル、八時朝飧ス、午前十時兼子ト共ニ、ローマン氏ノ案内ニテ自働車ニテ博覧会場ニ抵ル、此日ハ兼テ通知アリタル日本日トテ、市中殊ニ装飾ヲ盛ニシテ市民群聚ス、先ツ場内ニ入リテ休憩シ、後森林館ニ抵リテ撮影ス、午後一時日本館ニ抵リ、日本人会ノ催ニ係ル園遊会ニ出席ス、午飧後場中ノ会堂ニ於テ実業団員ノ使命ト題スル問題ニテ、一場ノ公開演説ヲ為シ、畢テ旅宿ニ抵リ、衣服ヲ更メ、再ヒ会場ナル紐克館ニ於テ催ス処ノ晩飧会ニ出席シ、食事畢リテ政府館ニ抵リ、レセツプシヨンヲ開ク会スル者無慮四・五百人、悉ク握手ノ礼ヲ為ス、畢テ湖水ヲ横キリテ夜十二時過旅宿ニ帰ル
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.96掲載)


竜門雑誌』 第264号 (1910.05) p.44-46

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
○上略
九月四日 土曜日(シヤトル市第四日)
此日は博覧会の日本日(ジヤパンデー)なり、在留邦人の市内自動車行列に一行も加はる筈なれば、午前十時には音楽隊を先頭として、新聞記者団・商業団体・国語学校生徒・理髪業団・料理業団・旅人宿業団等の自動車六十有余台、意気揚々としてホテル前に来集したり、先生以下一行はシルクハツト、フロツクのいでたちにて之に参加し、再度隊伍整々博覧会場に向て進行を始めたり、途中之を見物せんとて群集せる老若男女、垣を築き其賑ひ非常なりし
此行列は市中最も繁華なる街路にして、電車・荷馬車・自動車・馬車の往復頻繁なる中間を行進したるも、極めて整粛に聊かの故障無く、予定の行動を遂げたるは日本にては到底見られざる事なるべし、是等は自動車運転手の妙手と云んよりは、寧ろ之に対し他のものゝ注意深きに依る結果ならんと思はれたり、午前十一時博覧会場に到着す、一行は場内台湾喫茶店に小憩の後、場内に繰り込みたる行列を見物しつつ、森林館に向ふ、先生令夫人始め一行の夫人は、彩れる日傘をさして人力車に打ち乗り、隈なく場内を見物せられたるが、和服と日傘に人力車が外人の気に入りしと見え、到る処に於て幾個となくレンズを向けられたるを見受けたり
一行は森林館にて紀念撮影の上、午後一時日本出品館裏手の芝生上に設けられたる、在留邦人の催にかゝる実業団招待の大園遊会に臨む、主客合して二百余名、米人側より賓客及接待として多数参集し、夫人接待其他の夫人又数十名参会して一行の夫人連と卓を囲む、斯くして此処に一団、彼処に一団、主客一同打寛ぎて歓を尽して散会したるは午後三時頃なり
夫れより青渊先生には、場内オーデトリアムに於て催されたる日本日祝賀式に臨まる、式の順序は△挙式の辞(司会者高橋轍夫氏)△実業団歓迎の歌(国語学校生徒)△歓迎の辞(博覧会々長チルバーク氏)△演説(青渊先生)△祝辞(織田一氏)△演説(神田男爵)△同(ヂヤツヂ・バーク氏)△博覧会の歌(国語学校生徒)にして、青渊先生の演説は実業団之使命と題するものにて、大要は如左
[実業団之使命]
青渊先生の演説は頭本元貞氏(東京に於けるジヤパン・タイムス社長)に依りて通訳せられたるが、反訳の正確なりしと、其文章句調とは、遺憾なく先生の心胸をまで公衆一同に伝へたり
次に桑港商業会議所会頭ダラー氏は、ユーレカ、オークランドロスアンゼルス、サンデゴー及桑港の会議所を代表して一行の歓迎演説を試みたるが、次いで東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の六商業会議所に宛てたる加州商業会議所の感謝の意を表せる決議文を朗読して、之を青渊先生に呈せられたり、青渊先生は是に対し丁寧なる言辞を以て其好意を謝し、且日本の始めての使節たる村垣淡路守が始めて見たるなつかしき桑港が、今回は最後に廻されたるは遺憾なれども、一両月の後には緩々拝訪する筈なれば、其際重ねて好意を謝すべしなどの諧謔を交へ、頭本氏再び之を通訳したり
次に神田男爵の日本の教育に関する英語演説、シヤトル市を代表せる長老教会牧師パワー氏・京都商業会議所会頭西村治兵衛氏・横浜商業会議所会頭大谷嘉兵衛氏の演説ありて、司会者に依りて閉会の宜告せられたるは午後五時なり
会終りて先生には自動車にてホテルに帰還し、服装を改めたる上、六時半晩餐会及レセプシヨンに臨む、此の晩餐会及レセプシヨンは、青渊先生を始め実業団正賓及専門家並に各夫人を始め、シヤトル市各商工業家・政府委員・州市官憲の人々等無慮二千余名の会合にて、主催者たりしローマン、バツカース、ブレーン、バーク、トレートの諸氏は、各夫人同伴にて実業団一行をホテルに出迎ひ、博覧会場内紐育館に案内せられたるは頗る厚き款待なり
此晩餐会如何に盛観を極めしかは茲に管々しく記す迄も無き事なれども、同九時よりの大レセプシヨンは蓋し一行旅行中稀有のものなるべく、其人数の大なりし丈け、先生及同令夫人の多忙疲労は如何計りならんかと察せられたり、午後十時会を撤して、一行はユニオン湖岸のグランドスタンドに案内され、特に一行の為に打上げられたる花火を見物して、十二時湖上を船にて帰路に向ひ、途中より自動車にて帰館せられたるは五日の午前一時なりし
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.96-98掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.97-101

 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
    第一節 シヤトル市
九月四日 (土) 晴
本日当地博覧会に「日本日」の催しあり、在留同胞は自働車行列を行ふべく、午前十時ホテル前に集りて団員を迎へ、各之れに分乗し市中を徐行して会場に赴き、後ち其行列を見る。「日本日」とは、今回の博覧会開期中、指を屈すべき余興日の一にして、此日は一切日本々位の余興を催し、之れに列する同胞は、当市以外タコマ、ポートランド辺より来る者を合して、無慮七八千の多きに及べり。
日本人団体の行列 飲食店・農夫・職工・床屋等各種事業に従事せる邦人団体の催に係る仮装行列を為せる外「ポーハタン」号の模造船、日本風の山車等の造物を曳き出し、賑々敷博覧会場内に練り込める有様は、我等一行をして万里の異域にあるを忘れしむるものあり。一行は此行列に先つて場内に入り、政府館前にて之を見物す。
此際婦人側は、兼て場内に用意されたる日本式人力車に分乗し、米人によりて輓かれしは頗る奇観なりき、かくて一同は森林館裏にて紀念の撮影を為せし後、日本館後園の園遊会に赴き、後「オーヂトリアム」の演説会に臨む、高橋日本人会長司会し、博覧会長チルバーク氏、渋沢団長(頭本氏通訳)西村氏(高石氏通訳)大谷氏(斎藤氏通訳)等の演説あり。尚「カリホルニヤ」州商業会議所代表者桑港のキヤピテン・ダラアー氏の歓迎辞朗読あり、会衆日米人合せて三千余名、頗る盛会なり、此日渋沢団長の演説左の如し。
   演説前掲ニツキ略ス。
  加州総代の歓迎辞
東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋六商業会議所派遣実業団員各位
カリホルニア州諸商業会議所を代表して、曩きに日本を訪問したる委員等は、玆に諸君に深厚なる歓迎の意を表し、併せて諸君が無事米国に上陸されたるを賀す。
該委員等は、客歳諸君の賓客として貴国に滞在中の、最も愉快なりし回顧を、長く記臆に存し、諸君がカリホルニア州に入らるゝの日は、風光明媚なる貴国を訪問中受けたる無限の親切と好意とに対し、聊か酬ゆるの機会を得んことを、大なる愉快を以て期待す。
  一九〇九年九月一日
  加州桑港、ロスアンゲレス、オークランド、ユレカ、サンディアゴ各商業会議所派出委員総代
    委員長 エフ・ダブリュー・ドールマン(手署)
    書記  ユー・ダブリュー・アレキサンダー(手署)
夜は更に七時半より、博覧会及商業会議所の主催に係る、博覧会場内紐育館の晩餐会に招かる。会する者男女二百余名。後ち政府館内の「レセプシヨン」に臨み、余興花火を見、小蒸汽にてワシントン湖に遊び、後又自動車に送られてホテルに帰る。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.98-99掲載)


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