「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月1日(水) 総会開催、ニューヨーク滞在日数増加と日程変更を協議 【滞米第1日】

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.534-537

 ○第三編 報告
    第一章 滞米日数増加の件
我一行の米国滞在期日に付いては幾多の問題を生じ、成る可く多数の都市を訪問せしめんとする先方の希望と、成る可く時日を短縮し、年末経済事情の多忙なる前に本邦に帰着せんとする、本邦側の希望とを調和する為め、幾多の交渉を重ね、結局先方の「プログラム」に随ひ八月十九日ミネソタ号に搭乗して横浜を出帆し、十一月二十三日桑港出発のモンゴリヤ号にて、本邦に向つて出発することに決したり。
然るにミネソタ号は予定に先んずること一日、即ち八月三十一日ポート・タウンセンドに入り、翌九月一日シアトルに到着したるに依り、同日直ちに総会を開き、諸般の事務を打合せたる際、団員多数の希望として、紐育滞在僅か二三日に過きざるは、最も商工業の視察上、不便なりと思はるゝを以て、是非右の滞在を一週間延期し、総計十日となし、之を補ふ為め東部及中部に於て訪問すべき、さまで重要ならざる小都市を削除するの議を提出したるも、水野総領事及田中領事より懇々米国内に於ける実情を述べ、比較的著名ならざる小都市は、却つて我一行の訪問によりて、本邦に対する友情を開発すべき所にして、斯る地方こそ我一行が力を尽して親日的勢力を扶植せざるべからさるなり。既に「プログラム」の定められたる今日に於て、是等の都市を削除することは、重大なる任務を尽さゞるものなると同時に、右の削除に依り当該地方に尠からざる不快の感念を与へ、甚だ不利益なる結果を生ずべしとの意見を述べたるに依り、一行は之を諒とし、遂に本国に於ける業務を多少犠牲に供するも、折角渡米したる趣意を貫徹せざるべからずとの議に決し、
 (一)既に訪問すべしと定められたる場処は一も削除せざること
 (二)紐育滞在は十日と改むること
 (三)十一月三十日桑港発地洋丸にて帰航すべきこと
の三点を具して、更に米国側に交渉することに決議し、其交渉を水野田中両領事に嘱託したり。
両氏は其決議に基き、直ちに「ローマン」「ブレイン」の両氏に会見し我団希望のある所を述べ、且つ紐育滞在一週間を増したるは、主として単独的随意の行動を採り、以て既に存在せる取引を鞏固且つ拡張すると同時に、未だ開かれざる取引を開始するの機会を得、又は特殊の項目に就き、商工業上の研究を為さん為めに外ならざるを以て、此一週間の滞在中は米国側に於て何等饗応的の設備を為さず、全然我団の自由に任せんことを希望し、尚帰航を本邦の汽船に取るに至りたるは右の延期より生ずる自然の結果にして、特に日本の汽船を撰まんが為めに、斯る提議を為すにあらざることを含み置かれたしとの趣意を述べ、尚今日に於て斯る提議を為す為めに、帰路四十余日の「プログラム」を変更せしむる必要を生ずれとも、恰も之を一週間延期するが為めに、各地とも一週間繰下げとなるを以て、自然想像するほどの困難と迷惑とを来すことなかるべしとの希望を述べたるに、米国側に於ても此意を諒し、早速関係地方の各鉄道会社に交渉を開始すべしとの旨を述べたり。
越へて数日「ローマン」氏は、聯合商業会議所を代表して、右の交渉は夫々関係の向に照会し、何れも異存なき旨の回答を得たれば、当方希望の通り取計ふべき趣を回答したるにより、本団は一方に於て本邦に電報し、他方に於て関係地方に之を通知したり。
後にて想へば、若し此議にして成立せずんば、本団の東部に於ける訪問は、紐育滞在の短き為め、大に其利益を減殺したらんと思はれるのみならず、又偶然にも帰航には、日章旗の下に大平洋を横ぎりたる為めに、日米両国汽船航路の比較を為すの機会を得たる等、極めて有利なる結果を生するに到れり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.94-95掲載)


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