『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72
八月十日、加州の桑港、ロスアンゲレス、オークランド及サンディアゴ四商業会議所の招待状、及び曩きにシヤトル、タコマ、スポケーン[、]ポートランド四商業会議所より送り越したる招待状とを合併して、之れに引換ふべき「太平洋沿岸聯合商業会議所」の名を以てせる本招待状東京商業会議所に到着したり。(其成行及び本文は別項に記するが如し)新聞経営者として一行に加はるべき頭本元貞氏の外に、巌谷季雄 [筆名:巌谷小波] 氏は我実業家に対する報告・記事、歓迎の模様等を、日々本邦に電報し、東京独立通信社は、此電報を本邦の各新聞及び団員の留守宅に通知すべき準備成る。蓋し我実業団に対する、米国側の熱心なる歓迎模様を本邦に通知し、我新聞紙をして広く之を公衆に伝へ、以て米国の好意に対する我が称賛を、更に米国に反響せしむることは、表謝の方法として最も機宜に適することなるのみならず、其結果は両国民相互の交情を、益々融和円満にするの効能あるべきは疑なき所なるも、頭本氏のみにては、一行に於ける同氏の任務繁劇にして、自から之れを為す能ざるべきに因り、特に一行中の巌谷氏に嘱託し、電報起案の事務に当らしむることゝなれるなり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.31掲載)