「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1923(大正12)年12月7日(金) 旧渡米実業団主催クラーク氏招待会

竜門雑誌』 第424号 (1924.01) p.71-72

○旧渡米実業団員のクラーク氏一行招待会 旧渡米実業団の諸氏はクラーク氏の来朝を機とし、同氏並にグリツグス氏及びホーグ氏を主賓とし、青渊先生・増田明六・名取和作・岩原謙三・小池国三・飯田旗郎・田辺淳吉・町田徳之助・渡瀬寅次郎・大谷嘉兵衛・小畑久五郎諸氏出席の上同団が明治四十二年青渊先生を団長として渡米せる際に寄せられたる多大の好意を謝する為め、毎年十二月十七日を以て開催する定めの記念会を兼、ク氏を招待して往事を談じ旧情を温めたる由なり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.481-482掲載)


渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十一月至   高田利吉筆記 (財団法人竜門社所蔵)

[前略]
○十二月七日
○上略
△六時、芝紅葉館に於ける旧渡米実業団主催のクラーク氏招待会に出席せらる、明治四十一年に我国の六商業会議所申合せて、米国太平洋沿岸の八商業会議所の人々を招待せしことあり、蓋し米国移民問題につきてかの所謂紳士協約成立せし時、外務当局より慫慂せられしに由るものにて、国民外交の起原ともいふへきものなり、当時ク氏はポートランド市商業会議所会頭の地位にあり、同所を代表して一行に加はり来れり、其後米国側よりも答礼の意味にて我か商業会議所の人々を招待し来りしかば、子爵ハ親ら五十一人の実業家を率ゐて渡米せられ、前後三ケ月を費して米国知名の都市六十ケ所を巡回せられしが、ク氏はこれにも委員の一人として始終一行の東道をなしたる人なり、爾来渡米団にては毎年十二月十七日を以て記念会を開き来りしが、今年は特に其期日を繰り上げてク氏を招待し、往事を談じ旧情をあたゝむる事とせられしなり、団員中既に下世せしもの二十人ばかりに及べるに、子爵と大井朴真氏とは最年長者なから今尚健在せらるゝなり
(『渋沢栄一伝記資料』第39巻p.253-254掲載)


(増田明六)日誌 1923(大正12)年 (増田正純氏所蔵)

十二月七日 金 曇
○上略
後六時、先般来邦のクラーク氏歓迎の為め元渡米実業団員中、京浜の者打寄り芝紅葉館に於て晩餐会を催す、賓客はクラーク氏の外グリツグス氏、ホーグ氏の三人、団員は十一名にて合計十四名なり、料理ハ一人八円、余興として同館附属踊手の京人形あり、一同歓を尽して午後十時退散す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.481掲載)