「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1917(大正6)年9月24日(月) 旧渡米実業団員故人追悼会

集会日時通知表 1917(大正6)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月廿四日 月 午後二時 旧渡米実業団員故人追悼会(令夫人共)
              (上野寛永寺
             右終ツテ晩餐会(上野精養軒)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.478掲載)


竜門雑誌』 第353号 (1917.10) p.121-122

○旧渡米実業団員逝去諸氏追悼会 今回日米関係委員会にては、既往明治四十二年、青渊先生団長として率たる渡米実業団員五十三名の帰朝以後、今日まで既に九星霜、其間該団員中の諸氏にして、今は故人となれる人々、故西村治兵衛氏外八氏の為め、青渊先生及び中野武営氏並に旧団員諸氏主催となり、去る九月二十四日上野寛永寺に於て各故人の遺族を招待して各故人追悼法会を営まれたるが、当日は導師輪王寺門跡円朗大僧正外東叡山総出にて、大悲胎蔵曼荼羅供の読経に次ぎ、青渊先生の故人及遺族諸氏に対する懇篤なる弔辞ありて、壮厳なる法会を営み、後一行はいとう呉服店新築店舗を参観して、更に上野精養軒に於ける晩餐会に臨みたるが、晩餐後、青渊先生の遺族及び来会したる団員諸氏に対する挨拶並に団員諸氏の懐旧談等あり、最後に左右田棟一氏各遺族を代表して丁重なる謝辞を述べ、其散会せるは午後十時なりき。
因に右団員諸氏中逝去せられたる人々は
  西村治兵衛(京都)原林之助(東京)原竜太(横浜)水野幸吉(東京)藤江永孝(京都)左右田金作(横浜)佐竹作太郎(東京)岩本栄之助(大阪)土居通夫(大阪)
の九氏にして、尚ほ当日旧団員にして出席せられたる人は、青渊先生及同夫人、中野・日比谷・大橋等諸氏二十二名にして、故人の遺族は拾名なりきと云ふ。
  ○是日ノ栄一日記及ビ挨拶ノ筆記ヲ欠ク。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.478-479掲載)