「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月11日(土) 日本での報道「渡米実業団帰途に着く」(東京経済新聞)

東京経済雑誌』 第60巻第1520号 (1909.12.11) p.1102

    ○渡米実業団帰途に着く
去月十四日オマハに於てブライアン氏に邂逅したる我渡米実業団一行は、其夜デンバーに着、是より中野・加藤・南・渡瀬・野田・本田の諸氏は分遣隊としてカリフオルニアに向ひ、本団は汽車に乗じて、十五・十六の両日を汽車内にてロツキー山の絶景を賞し、十七日午前ソルトレーキに着、茲に全く太平洋面の人となれり、同地にてモルモン宗本山の歓迎を受け、有名なる管長スミス氏に会見し、夫よりデンバーを経て十八日午後ベルモントに着、更にローサンゼルスに向ひ、十九日午後同地着、諸処を観覧し、且つ中野氏等の分遣隊に合す、夫よりサンヂイゴ、リバーサイド、レツドランドを経て、二十四日アリゾナ州のグランドキーン(大渓谷)を賞し、二十六日汽車に搭じてオークランドに向ひ、二十七日午前同地に着、三ケ月間何等の故障なく寝食せしハルマン式の特別列車に別を告げ、同日遂に桑港に入り、フェーヤモンド・ホテルに投じ、二十八日は日本人会の歓迎、二十九日は市より公式の歓迎を受けたるが、別に臨める両者の感情は特に切実なるものありき、斯くて実業団は、三十日朝各地商業会議所代表者及桑港の重なる実業家三十余名を地洋丸に招待して留別朝餐会を開き、彼我代表者の痛切なる告別送別の演説あり、午後一時無事解纜す、見送りの日本人は埠頭に充満し万歳の声盛んに起る、尚紐育以来宿題となれる日米両国商業会議所間の連絡を通じて、相互通商の便宜を計る件は、桑落着以来数回の協議を経て、二十九日夜左の決議をなすに至れり、即ち
 第一、双方の聯合商業会議所は協同して日米貿易の増進を計る事、
 第二、右の目的を達せん為め、特に双方に於て各自常設委員又は役員を置きて相互の連絡を執る事、
尚一行は途中布哇に立寄り、来る十七日朝横浜に帰着する筈なり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.384-385掲載)


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