「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月30日(火) 船内で留別朝餐会開催。午後1時、サンフランシスコ港を出航し帰国の途に就く 【滞米第91日 - 航海初日】

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458

 ○第一編 第九章 帰航日誌
     第一節 船中の上
十一月三十日 (火) 雨
 午前八時一同ホテルを辞し地洋丸に搭ず。同九時より船中食堂にて留別朝餐会あり。米国接伴委員一同、及桑港日本人有志者百余名列席す。席上渋沢男の挨拶、加州知事代理ピッピー氏・桑港商業会議所会頭マクナッブ氏、及接伴委員長ローマン氏の送別の辞等あり、十一時頃散会。
     ローマン氏の演説
    (一行の接伴委員長として、太平洋沿岸聯合商業会議所会頭の資格を以て、終始随伴したるローマン氏は、如何なる場合に於ても、公会の席に於ては演説をなすことを肯んぜず、常に沈黙を守りたるが、本団が桑港出発に際し、地洋丸に於て留別のために朝餐会を開き、主人側の米国男女を招待したる席上に於て左の演説を朗読し、以て送別の意を表したり、此演説は、太平洋沿岸聯合商業会議所の送別の辞と見るを得べきを以て茲に訳載す。)
  渋沢男爵及紳士淑女諸君、我等が袂を分つの時は、既に今朝に迫まりたるを以て、予は諸君の知らるゝ如く、演説の才を有せず、又甚だ好まざる所なるに拘らず、茲に一言を呈せんとす。
  三個月以前諸君はシヤトルより米国に入り、爾来吾人は毎日寧ろ毎時間の伴侶たりしなり、最初二週間は、太平洋岸に於ける聯合商業会議所の属する北部の都市を訪問し、後ち米国を縦横に旅行して、到る処款待優遇を受けたり。実業団を組織する諸君の性格と、諸君の渡米の目的及其重要なる結果を齎すべきことが、漸次汎知せらるゝに及んでは、吾人の中、西部及東部諸州に於ける旅行も亦到る処最も慇懃なる待遇を受け、又友誼及交情の誠実なる表示を見たり。ニユーイングランドの製造地方に突貫し、転じてペンシルベニア州の鉄・石炭工業の堅塁を訪ひ、到る処熱誠なる歓迎を受けたり。ボストン・紐育・費府・華府の如き大都会は、諸君を歓迎せんが為めに、殆んど競争の状態にありたり。ボルチモーアは同情に富みたる注意を以て、其プログラムの最も重要なる部分を撤回し、諸君と共に、日本の最も著名なる政治家故伊藤公爵を弔ふの悲哀を分ちたり。而も吾人のボルチモーア滞在の日は、恰も葬儀の当日なりしを以て、其哀雲悲霧は、只に日本全島を蔽ふのみならず、海陸数千哩を隔てゝ、我一行をして悲嘆の情に堪へざらしめたり。
  西の方、否吾人の多数に取りては、故国の方に進んでロツキー山脈の高原より下りて、自然が其母たる土壌をして、長期の眠りに入らんとて、本年初めて白き毛布(雪)を蔽たる辺より、更に下つて春風カリフォルニアの裾野に吹きたる境に入りては、一行の笑顔には、諸君の主人たる(聯合商業会議所属地方)地方に再び入るを喜べるの色を見るべく、又諸君が此麗しき地洋丸に搭乗して諸君の愛する郷国に帰り、諸君の安全なる帰朝を歓喜を以て迎ふべき国民に会すべく、纜を解くの日の指呼の間に迫まれるを喜ぶの色を禁ぜざりし。
  過去三個月斯く親密なる伴侶として旅行したる間に於て、吾人は相互の間の如何に眤近なるものやを知覚したり。人種・宗教及古来の慣習及伝説の相異に因りて、相互の間に大いなる差異あるに拘はらず、人類の大団欒に於て、吾人は総て同胞にして、同一の目的、同一の希望、同一の慾望を有することを悟れり(今回の旅行中屡々言はれたる如く)吾人相互間に於ける最大の障害物は、洋の東西を分つが故にあらずして、相互に関する知識の欠乏に存することを知覚したり。吾人も亦諸君が吾人を従前よりも能く知得せんことを求め、太平洋岸の人士諸君を招いで、此国に来らしめ、以て諸君に我国民的生活の各方面を示さんと試みたり。吾人は諸君を我家庭に伴ひ、諸君に寺院を示し、慈善事業を示し、教育機関・工業及工場を参観せしめたり。吾人は諸君の注意を市民的生活の進歩に誘ひ、諸君が見聞を広めたり。然れども是等は尚ほ物質的のものたるを免かれず、吾人は更に進んで諸君に亜米利加人の誠意真情を示し、以て諸君をして米人の心胆は、日本人民に対する友誼及親切の感情を以て、鼓動しつゝあることを看取せしめんと試みたるなり。若し吾人にして之を諸君に示すことに成功したるべくんば、吾人は諸君が日米両国間に於ける国際的平和及友誼の使命として、又両国間の渝らざる友情及協同に対する熱心なる願望の表彰として、諸君の感得したる処を、諸君の同胞に齎し帰られんことを希望す。予は過去十二個月の間の交情に依りて創始されたる同情と理解とは、偉大にして且つ永遠に渉るべき結果を産出せんことを希望す。日米両国が友誼及相互共通の利益てふ、鞏固なる連鎖によりて結付けられ、以て太平洋の平和を保障し得んことを希望して已まず。
  実業団員諸君 予は終りに臨んで諸君に向ひ、諸君が今回の旅行を通じて、予に対して表されたる、渝らざる好意尊敬に対して、深く感謝の意を表せんとす。
  勿論吾人米国人の風俗慣習の中、諸君に奇異及不審に見えたるもの尠からざるべし。然れども諸君は変らざるの礼譲を以て、刻々起り来たる新境涯に、諸君自身を同化せしめ、以て予に対して満腔の援助を与へたり。今や諸君と東西相別るゝの時来れり。而かも吾人は「おさらば」と言はざるべし、何となれば、諸君の多数は再び此米国を来訪すべく、又吾人の中の或者も、疑もなく諸君を日本に訪問すべくあるにより、寧ろ此際諸君に対して旅行の無事と「更に再見を祈る」と云はしめよ。
  予は諸君と共に、諸君の健康幸福及無事御帰朝を祈る為めに、乾杯せんことを求む。
午後一時、数千の日米人桟橋に雲集して、勇壮なる奏楽に和し、万歳を連唱せる裡に、我が地洋丸は、纜を解き、悠々として金門港湾を出づ。団長時に詩あり、曰く、
  逢着先喜風骨真。  分襟更覚客愁新。
  風波従是三千里。  船出金門無故人。
こは牛島日本人会長送別の詩に答へしものなるも、亦以て各自の新知己に対せる、一行の心事を代吟せるものと云ふべし。
桑港商業会議所を代表して、我等一行と数ケ月の旅行を共にしたるストールマン氏は、他の数名と共に、税関小蒸汽船アラブ号に便乗し、沖合遥かに細雨を犯して見送り来れり。
又団員中、堀越・頭本・高石・田辺の四氏、及高梨嬢は、事情ありて米国に止まる事と成りし故、是亦桟橋に我等一行を見送りつゝ、別愁に耐へざるものゝ如し。更に船中を見れば、紐育支店より本店に栄転せる、三井物産会社常務取締役福井菊三郎氏の家族を伴へるあり、倫敦より帰朝せる三井銀行大阪支店長市川高策氏あり。又欧米巡回の帰途にある、内務省土木局技師工学博士青木元五郎氏の一行あり。加ふるに往航には未だ団員に加はらざりし、水野総領事以下一家族の在るあり、然なきだに一行の賑はしきに、船は我が東洋汽船会社の尤物にして、船員に亦同胞多く、船客に対して特に懇切を尽せば、一同已に我家に帰れるの感ありて、其愉快云ふべからず。
桑港解纜の後大洋波静づかにして、気候微温、泰平の瑞徴を呈し、過去四ケ月の労苦を忘れしむ。船内喫煙室には碁・将棋・骨牌等の遊技漸く盛んならんとせり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.374-377掲載)