「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月7日(日) シンシナティ到着。団員総会を開催し帰国後の解団式などについて決議。商業会議所主催午餐会の後、貯水池等の見学 【滞米第68日】

シンシンナテー商業会議所徽章

 「シンシンナテー商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第272号 (1911.01) p.45-52

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
明治四十二年十一月七日 日曜日 (晴)
午前七時シンシンナタ市に到着、車中にて朝食の後、十時同市商業会議所議員其他有志歓迎者の出迎を受け、青渊先生以下一行直に自働車に分乗してホテル・シントンに投宿す
午前十一時団員総会を開き、青渊先生議長となり、左の決議及報告を為す
決議事項
一、米国巡回各地に於て歓迎に尽力したる米人に対し、桑港にて乗船の日感謝状発送の件、但其立案は団長に一任の事
二、横浜上陸の日は東京に一ト先集合し、東京商業会議所に於て解団式を挙行し、茲に総理大臣、外務・農商務両大臣、米国大使等の出席を請ふ事
  留守六商業会議所に打電して、協力右の準備を為す事を依頼し、尚一行乗船の地洋丸は、横浜到着の時間を到着日の早朝とする様東洋汽船会社に依頼する事
三、米国政府より一行の接伴掛を命せられたるハルピン領事グリーン氏は、同政府の命に依りセントルイス市に於て一行と分袂してハルピンに赴任せらるゝ筈に付き、同地に於て送別会を開き、且一行を代表して団長より感謝状(日英両文)を送呈する件
四、デンバー市以後の地方に於ては、日本労働者の数多くして、苟もすれば一行を利用して労働者の為めに渡米したる如く言ひふらし、為之米国人の一行に対する感情を害する恐あり、斯くては折角是迄に得たる同情を失ふ事無きを保すべからざれば、団員は各自に注意し、特に左記の挙動に就て慎重たるべき事の申合を決議する事
  一 不潔の場処に立至らざる事
  一 素姓の明かならざる日本人を避くる事
  一 アメゴロ・筆ゴロと称する無頼漢あり、注意する事
  一 婦人の買物は可成為さゞる事
五、エール大学より創立二百年紀念章壱個、プロビデンス市ゴルハム会社より紀念章壱個及写真帳壱冊、ボストン市紡績会組合より紀念章壱個団長宛寄送ありたるが、之が処置の件
  右寄贈品は当然団長に於て収受せられん事を請ふ旨、一致を以て決議したり
報告
一、水野総領事同行帰朝の事
  帰朝後に於て、米国人に対する表謝及旅行中の整理に関しては、米国及米国人の事情に精通した人に依らずんば、他日恨を残す事無きも保すべからず、依て常議員は一致を以て此旅行中一行の先導と為りて尽されたる水野総領事の同行帰朝を請ふ旨、先きに華盛頓松井代理大使に依頼し、尚団長より外務大臣に電報を以て請願して其許可を得たる事
二、米国側委員長ローマン氏の名を以て、我が
  天皇陛下に米国太平洋沿岸聯合商業会議所の金製紀念章捧呈方を団長に依頼ありたるに付、之を快諾したる事
三、合衆国造幣局長より、日本実業団渡米紀念の為め我が
  天皇陛下に献呈せらるべき紀念金牌を、華盛頓滞在中国務卿の承諾を以て国務次官ウイルソン氏より伝献方を団長に依頼せられたるに付き、之を快諾したる事
四、米国側委員一同の署名を以て、故伊藤公爵閣下に対する弔詞文を団長宛に送付ありたる事
五、リーデング商業会議所より、同会議所議員の決議に為る同公爵に対する弔詞文を受領したる事
総会終了後、十二時青渊先生以下一同自動車に分乗して、郊外景勝の地を賞しつゝ午後一時カントリー・クラブに到り、商業会議所開催の午餐の饗を受く、会頭チヤレス・イーロース氏、市長ジヨン・ガルヴイン氏の歓迎の辞あり、青渊先生答辞を述べられ、畢りて二時三十分当市市有水道署を参看す、此水道はオハイヲ河の水を引用したるものにて、隧道・水管・土地・建築費等を合せ弐千弐百万円を費し、本年竣工したる由にて、市民は其規模の大なる、機械の整備せる、真に世界第一と称し居れり、三時再び自動車にて貯水池を一周して、河水汲上けの大喞筒及濾過地の装置等を巡見して、夕刻帰宿
七時三十分青渊先生には、同ホテル第九階の大広間に於て当市商業会議所及各種商業団体の代表者男女に依りて催されたるレセプシヨンに出席せられたり、余興に音楽独唱及当地名所の幻灯会あり、且立食の饗応ありて十一時散会帰宿
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.282-283掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.352-388

 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
     第一節 シンシンナター市
十一月七日 (日) 晴
午前七時シンシンナターに着。十時同市商業会議所員、其他の出迎を受け、直に自働車に分乗して、ホテル・シントンに入り、総会を開く。出席者渋沢男・神田男・中野・大谷・西村・土居・上遠野・左右田・石橋・巌谷・水野・佐竹・加藤の諸氏、団長より、既訪の各地商業会議所、及び接伴委員等に対する表謝、及団務整理の為め常議員一同は、水野総領事の同行帰朝を必要と認め、松井代理大使にも相談の上、団長より母国外務省に電稟する所ありしに、昨日許可の旨返電あり。即ち水野総領事は、一時賜暇帰朝の事に決したる旨を報告し、尚ほ接伴委員中の、ハルピン領事グリーン氏は、米国政府の命令により、聖路易に於て一行に分れ帰任するに依り、同地に於て感謝状を送り、又送別の宴を張る事、日本帰着後の解団式は即日東京に於て開く事等を決議す。十二時、一行は自働車にて、田園倶楽部に於ける商業会議所主催の接見会に臨み、午餐の饗応を受く。席上商業会議所会頭チャーレス・イーロース氏の挨拶に次ぎ、市長ジョン・カルヴィン氏の歓迎辞あり。当市は大統領タフト氏出身の地なりとて、市民特に歓迎に熱中せるの観あり。午後一同は十数哩を隔てたる水道濾過池を見る。規模頗る宏大にして、真に米国一と誇るに足る。其費用約一千万弗に及べりと云ふ。夜七時半よりホテル九階に接見会を開かれ、余興として音楽・独唱、及び当市の風景幻灯等あり、後ち立食の饗応あり、十一時散会す。
先に華盛頓府にて一行と別れ、専門事項研究中なりし藤江氏は、本日当市に来りて本団に合す。
婦人の部 夜シミッグラップ夫人方に晩餐を饗せらる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.305-306掲載)


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