「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月4日(木) 日本への発電「国務卿の弔ひ演説」(竜門雑誌)

竜門雑誌』 第258号 (1909.11) p.43-46

△国務卿の弔ひ演説(バルチモア十一月四日発電五日午後着電)
昨日は天長の佳節に当るを以て、午前十一時一同は華盛頓大使館に参集、謹んで遥拝の式を行ひ、夜に入りてはニユー・ウイラード・ホテルに於ける松井代理大使主催の祝賀会に招かる、ノツクス国務卿・バレンジヤー内務卿以下臨席の米国紳士百余名、席上松井代理大使の発声にて先づ大統領の健康を祝したるに対し、ノツクス国務卿は我天皇陛下の万歳を発声して、会衆之れに唱和し、続いて国務卿起立「日米両国間の友情深厚なる歴史より説き起して、日本の米国に学びしより米国の日本に学べる事のヨリ多きを述べ、殊に武士道の如きは正に大に学ばざるべからざる所なりと賞讃し、更らに此の深き友情より推せば、日本の哀悼は即ち米国の哀悼なりとて、伊藤公の薨去に対し深く同情を表せる一場の弔辞演説を試み、尚進んで将来日米両国間に起るべき商業上の競争に就ては、公平にして同情ある商業上の仲裁裁判を組織し、以て世界の平和を保持する好個の新例を示さん事を望む」と結びて席に復するや、次で起てる内務卿バレンジヤー氏は「米国人は自国の事にのみ逐はれて、他国の事を研究するに暇あらず、然るに昨年太平洋沿岸より日本に商業視察の為め友人ローマン君渡航せし以来、日米両国の通商をして、愈々親密の度を進ましめざるべからざる事を一層深く感ぜしめたる事は大に予の意を得たり、乃ち日本が米国に対し利益ある隣人なるが如く、同時に米国も亦日本の有益なる隣人たるべし」と説き、之に対し渋沢団長は「日本は未だ米国と併立して提携するに足らず、然れども努めて之れに及ばん事を期す、昨年来相互に一層の親善を尽さんと努めつゝあるは、皆之れが為めなり、而かも啻に自国の富をのみ期して他を顧みざるにあらず、商工業の進むに伴れて競争的傾向を生ずるは元より避くべからざるも、常に正道を離るべからず、即ち仲裁裁判も必要なれども、夫れ以前に於て道義心に基く円滑なる交誼の結ばれん事を、切に希望するものなり、猶国務卿の伊藤公爵に対する弔辞に対しては深く感謝の意を表す」旨を述て、最後に行政委員長マクハーランド氏は、日本人は頗る深切なり、米国は是非之れを学ばざるべからず、太平洋は日米両国間の連鎖にして、恰かも心と心の無線電信なり云々と、巧妙なる演説を試み、頗る盛会を極めたるが、一行は直ちにワシントンを去り、今朝バルチモアに到着せり (完)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.262-263掲載)


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