「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月21日(火) セントポール到着、大午餐会でグレート・ノーザン鉄道会長ジェームズ・ヒルより歓迎の演説 【滞米第21日】

「セントポール実業家同盟」徽章

 「セントポール実業家同盟」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月二十一日 雷雨 冷
午前五時過汽車セントホールニ着ス、七時起床、支度ヲ整ヘ八時朝飧ヲ食ス、食後案内ノ人ニ導カレテ市街ヲ一覧シ、正午オーヂトリヨムト称スル公会堂ニ抵リ、市内商業者ノ催ニ係ル大宴会ニ出席ス、有名ノセームス・ヒル氏、其他ノ名士モ来会ス、食卓上一場ノ答辞演説ヲ為ス、畢テヒル氏其他市長等ヲ訪問シ、午後六時ミネソタ倶楽部ニテ地方有志者ノ催ニ係ル晩飧会ニ出席ス、八時半汽車ニ帰リ、ヱリオツト氏其他ノ来訪ニ接ス、秘密結社ノ事情説明ノ為ニ人ノ来訪アリ、夜十一時過汽車セントホールヲ発ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.154-155掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.38-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
○上略
九月二十一日 雷雨 (火曜日)
午前五時セントポール市に向つて発車し、三十分にして着す(ミネアポリス市と当市を称して双仔市と云ふ)
(列車の停車場に停止せる間は便処に入るを禁ぜられ、爾来一行は此禁止を固守し居れるが、今日の如きは昨夜十時停車場に在る列車に乗込み、今朝五時に発車して卅分を経て又停車場に停止したれば、此三十分にて用を便すること能はざる多くの人々は、停車場に着すると共に急ぎ其便処に赴く様、笑はずには居られざりし)
車中にて朝餐を済まし、九時青渊先生始一同、自働車にて歓迎委員に導かれて停車場を出発す。
此市にては見物すべき会社・工場の数甚だ多きを以て、一行が不残之を見物せんこと到底出来得べき事に非されは、各其欲する処を見物する事に為したり、青渊先生は如例頭本氏及歓迎委員と同乗して市街を一覧し、正午オーデトリアムと称する公会堂に到り、市内実業家の催に係る大宴会に出席せらる。
此オーデトリアムはセントポール市が世界に誇る大建築物にて、鉄骨煉瓦コンクリートより成り、建築費四十六万弗、一万数百人を容易に入場せしむることを得ると云ふ、又必要に応じては大小数室にも之を分割使用することを得る仕組なり。
一行の招待を受たる午餐会場は、数日前大統領を歓迎饗応したる其儘の善美を尽せる装飾を利用したるものにて、天井は青葉を以て全部を装ひ、夫より数箇の大花籠を吊し、四方の壁と柱とは日米国旗にて装飾され、卓上には花を盛り、床には噴水を設けたり、主人側には市長を始め、有名なる大北鉄道会社々長ゼームス・ヒル氏、同社支配人ヱリオツト氏其他の名士あり、午餐会を終らんとする時、司会者たる市長歓迎の辞を述べ、次きにゼームス・ヒル氏起ちて、今回日本実業団の一行が米国に上陸せられ、爾来各地に於て盛大なる歓迎を為したれ共、蓋し我州の歓迎には及ばざるべし(其意は同氏所有の鉄道を無賃にて通行することを承諾しあればなり)否今後の旅行に於ても同様ならんと思考すと説き起し、日本の進歩の著るしきを賞讚し、日米両国は相提携して将来世界に雄飛せざるべからず云々と演説し、次ぎて青渊先生は一行を代表して起ち、盛大なる歓迎に対し深謝の辞を述べ、又一行渡米の目的を説きてヒル氏の厚意を謝し、終りに此州前知事ジヨンソン氏の逝去に就き、如此有為の政治家を失ひたるは、啻に此州否米国の損害に止まらず、実に世界の為めに痛み悲まざるを得ず云々と深甚なる弔意を述べられたり、次ぎて、神田男爵の英語演説ありたり、献立の内に蛙の脚・野生の鶏・野生の米等珍妙の料理ありしが、孰れも美味なりし、午後四時午餐会終了を告ぐ、夫より青渊先生は自働車を駆り、ヒル氏・市長・エリオツト氏等を訪問して謝意を述べ、午後六時よりミネソタ倶楽部にて、オーナー氏外数氏の催に係る晩餐会に出席せられ、八時半汽車に帰りしが、次いてエリオツト氏其他の来訪に接し、又メーソン結社の事情説明の為二名の来訪者に接せられたり、午後十一時半マデソンに向て発車す。
    ジヨンソン氏の逝去
此日午前三時此州の知事ジヨンソン氏逝去せられたり、同氏は民主党錚々たる大人物にしてブライアン氏にして起たざれば、是非共候補者たるべき資格を有す、輿望頗る重く、タフト氏に代りて次季の大統領は同氏を除きて他に需むる事能はずと迄、国民の重望を荷ひたる人なりしが、溘然易簀せらる、真に惜しむべきの至なり、青渊先生は一行を代表して同氏未亡人に対し鄭重なる弔電を発せられたり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.159-160掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.176-185

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第十三節 セントポール
九月二十一日 (火) 晴
払暁セントポール着。午前八時四十分、出迎の自働車に分乗して、市内の各工場・製造所等を巡覧す。其重なるものはウェスト法律書印刷会社・ゴッチヤン製靴会社・ハム麦酒醸造会社等にして、麦酒会社前にては、消防の演習を一覧す。午後零時半オゥヂトリアムに於て午餐の饗応あり。席上弁士の中ゼームス・ヒル氏は、大要別記の如き歓迎演説を為す。又其午餐の食卓上に、此地の特産の野米・野鶏の上ぼれるも珍とすべし。午後は各製造所、及卸問屋等を見物し、コモ公園を過ぎて、特別車に帰り、列車内にて晩食を為す。
此日恰も当ミネソタ州知事ジョンソン氏の訃を聞く。氏は啻に知事として盛名ありしのみならず、米国民主党政治家中の錚々たるものなり。過日来屡々病気危篤の報に接し居りしが、今朝三時半を以て終に不帰の客と成りしは、悼みても余りありと云ふべし。即ち団長よりは、早速未亡人へ弔電を発し、又ミネソタ州庁を訪問して、厚く弔詞を述ぶ。尚当日市中静粛にして、晩餐会の中止されたるも、亦之れが為めとす。
      ゼームス・ヒル氏の演説
  此セントポール市に日本の顕著なる実業家諸君を歓迎するを得たるは、自分等の最も愉快とする所なり。唯本日は、我等州民の悲嘆に堪へざる日なるを遺憾となす。
  我等は今、州知事ジョンソン氏の柩を送るの悲運に遭へり。ジョンソン氏は尚ほ春秋に富み、今後造詣する所未だ図るべからざるものありしに、今朝訃音に接す、哀悼曷ぞ勝へむ。殊に氏は此州出身の人にして、此州の知事となりし最初の人たるに於てをや。我等ミネソタ州民としての悲嘆、斯く切なるものあるは、蓋し止むを得ざる所なり。
  元来我州は聯邦に入りてより、比較的に日浅く、現に予は五十年前、当地の未開の状態を親しく知れるもの、従つて其発達の極めて迅速なりし事蹟を知れり。
  之れは本日の賓客諸君の故郷たる日本に比するときは、其差極めて大なるものあり。日本は建国二千六百余年と称す。其中歴史あつてより二千年、初めの六百余年は伝説の雲に閉され居たり。
  我等がセントポールに於て、過去半世紀間に為したる所は、以て大いに世に誇ると雖も、而も日本が二十六世紀間に養成したる所のもの、蓋し物質的以上のものありて存するを見る。其東洋的の文明、其教育、其愛国心の敬慕すべきあるのみならず。一の帝室の下に四千八百万の同胞が、二万平方哩の地に住し、内に怨言を聞かず、外に醜声を洩さゞるものは、実に故なくんばあらず。之れを西洋歴史に比するに、吾人はシャーレマンの一統を論ずるに際して、非常なる偉績を感ずれども、日本がシャーレマンの生前千五百年、已に堂々たる帝国を建てたるを想はゞ、吾人豈嘆賞せざる可けんや。
  然りと雖も、吾人も亦我若年国に於て、進歩の速かなることに付て、諸君に誇り得べしと信ず。余が始めて此セントポールに来りし時には、住民僅に四千人、今現に諸君と会食せる此演劇場の在る所は、当時一の要塞にして銃砲を備へ付け、以て土人の襲撃に備へたる程なりし。然るに四十年後の今日に於て、此地は当市の中心となり、繁栄の区となれり。若し吾人にして、諸君の如き遠来の賓客に示すべきものなしとせば、是れ吾人が若き故のみ、吾人が為すなきの故にあらず。縦しや吾人は諸君に誇るべきの歴史を有せず、諸君に示すべきの古蹟を有せずと雖も、吾人の歓迎は極めて熱誠にして、啻にセントポール市民のみならず、我ミネソタ州民は、一斉に諸君の繁栄と幸福を祈らざる者なし。
  米国人の或る者は、日本は最近の戦争に於て、欧洲の大国を打破し、一時に名声を博したるに付き、驚嘆の情を禁ずる能はざれども、予を以て之れを見れば、之れ当然の事にして、今更これに驚き、之れを怪しむは愚者のことなりとす。二十六世紀の古き帝国として一糸乱れざる日本が、近く国を開き、国運の駸々たるものあるに、一面に於ては、五百年前に存在したる、欧洲の所謂「大国」なるものは、今如何なる状態にあるやを見よ。何れも衰頽し或は既に亡び、或は半ば亡びんとする状態に在るにあらずや。今日の所謂欧洲の「大国」なるものは、何れも最近五百年来に勃興したるものにして、其今後の運命は予測すべからずと雖も、日本が此世界に在つて、二十六世紀間隆運を維持したるは実に奇蹟と言はざるべからず。茲に予は諸君と共に杯を挙げて、衷心より日本帝国の繁栄と、来賓諸君の健康を祝せんとす。
聞く所によれば、ヒル氏が斯る場合に演説を為したるは、蓋し稀なることなりと云ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.184-186掲載)


参考リンク