「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年8月25日(水) 航海8日目 - 日付変更線通過「一生に一日儲けたる」

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

八月二十五日 曇 冷
[前略] 東経百八十度ニ至リ西経ニ入ルヲ以テ、此日ハ再ヒ二十五日トセサルヲ得ス、故ニ一日再来スルナリ、午前六時半起床、入浴ヲ廃ス、船室内ニテ日記ヲ編成ス、八時朝飧ヲ食ス、後米国史ヲ読ム、午飧後喫煙室ニテ一行ヲ会シテ礼式ノ事及行儀ノ事ヲ談話ス、又米国史ヲ読ム、午後七時夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.56掲載)


竜門雑誌』 第262号 (1910.03) p.41-49

    ○青渊先生渡米紀行
         随行員 増田明六記
八月二十五日 水曜日 快晴
細雨晴れて天気清朗なれども、風力は昨日より弥増して船の動揺一層烈し、されど青渊先生始め一行は已に十九日より海上に慣れたればにや、船暈を感じたるものなかりし
此日東半球を通過して西半球に入る、即ち西半球の二十五日なり、昨日も水曜日今日も水曜日、一生に一日儲けたる訳なるが、帰航には反対に一日飛び超ゆるから差引損得なくなるなり、今日より経度は西経に移り、日毎減じて往く、午前中北緯四十八度の辺を通過するとき、船員の話に茲は樺太の国境と同緯度の処にて、北方にアリスーシアン群島が見ゆる筈と云はれたるが、双眼鏡を取りて熟視したるも見えざりし、未だ濛気の十分晴れざる故ならんか、名の知れぬ鳥が奇声を発して船を掠む処を見れば、正さしく近くに島があるならんと思はれたり、何しろ北緯四十八度の処を通過するのことなれば、寒気の度合中中烈敷、冬服丈にては迚も我慢し切れず、外套を着て過すに至れり、夜も普通二枚の毛布にては遣り切れず、ボーイに頼んで尚二枚を借りて過したる程なりし
毎夜の日本食調理に余分の手数を要するとてコツク奴不平を喞つ、依つて本日より希望者は一食若干宛支出して之を彼等に与ふる事になしたり
青渊先生は不相変読書に耽られ、時々甲板及喫煙室に於ける競技を傍看せらる
正午航程三百十浬、北緯四十九度一分・西経百七十三度三十八分、風西南
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.71-72掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.75-86

  ○第一編 本記
     第二章 渡航日誌
同上 [八月二十五日]
東西両半球の境界を過ぐるを以て、茲に同日の重なれるに逢ふ。土居氏句あり、曰く『徒然の拾ひ物なり秋一日』
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.79掲載)


ミネソタ号の正午位置 (北緯49度01分・西経173度38分)


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