「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年8月21日(土) 航海3日目 - 協議会、デッキビリヤード競技会等開催

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

八月二十一日 曇 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ甲板上ヲ散歩ス、八時半朝飧ヲ食ス、後日米雑誌ヲ読ム、又書類ヲ調査ス、午飧後喫煙室ニテ一行協議会ヲ開キ委員ヲ定メ、中野武営氏委員長トナル、各専門家ノ会合ヲ催フス為メ神田男爵ヲ会長トシテ協議会ヲ開ク事ヲ定ム、同船中ノウエリアムウオーレス氏ニ面談ス
喫煙室ニテ一行中ノ遊戯スルヲ視ル、曾テ阪井氏○徳太郎ニ托シタル英文ヲ堀越氏ニ反訳セシム、読書室ニテ日米又ハ米国事情ノ訳書ヲ読ム、夕七時晩餐後喫煙窒ニテ一行中ノ諸氏ト談話ス、夜十一時就寝
大阪ヨリノ無線電信ニテ、(枚)方火薬庫爆発ノ事ヲ報シ来レルニヨリ、一行ヨリ同地ノ師団長ニ電報シテ之ヲ慰問ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.55掲載)


竜門雑誌』 第261号 (1910.02) p.12-18

    ○青渊先生渡米紀行
         随行員 増田明六記
八月二十一日 土曜日 晴
午前二時頃夢うつゝに大雷鳴強雨の音を聞く
青渊先生及令夫人共些しも別条なく元気旺盛なり
朝食前先生と共に甲板運動を試む、先生は朝食後読書室に入りて午前を費されたり
午後一時半団員協議会を開く、前日の議に附せられたる委員の選挙は各地会議所会頭協議の上、左の如く決定せられたり
 委員 土居通夫    西村治兵衛
     松方幸次郎   大谷嘉兵衛
     上遠野富之助 日比谷平左衛門
     佐竹作太郎   岩原謙三
     根津嘉一郎   中橋徳五郎
     大井卜新    西池成義
     左右田金作   伊藤守松
     田村新吉
青渊先生議長と成りて左の議案に付き協議を為す
 一委員の任務を定むる事
 一専門家会を組織して各専門の取調事項に就きて協議する事、専門家の委員長を神田男爵と為す事
 一団長所属の名誉書記を選定する事、但団長の指名に依る事
 一随行員をして可成各其従事の事業に関する取調を為す便宜を与ふる為め、相当の資格を与ふる事
右議事終りたる後、青渊先生には団員は一致の行動を取る為め、外交に関する場合のみならず、其他の場合に於ても個人的に議論又は賛否を為さす、可成委員に協議の上之を為されんことを希望する旨の演説を為されたり
午後三時より、デツキビリヤード競技会開催せられ、甲板頗る賑ひたり、小生は原林之助氏と組みて米人に対抗して大に勉めたれ共、運拙く敗北に帰したり
晩餐前青渊先生と共に甲板を運動する例なれども、濃霧深きを以て止めたり
夜船長代理ナベン氏、青渊先生始め一同と握手し、且挨拶を為す、同氏の談に依れば、今次の如き平穏の航海は近頃に無き事なり、多分此後も十中九分迄は平穏に終るべしとの事なりし
前夜来濃霧深きを以て、船長は一二分毎に汽笛を鳴らして警戒しつゝ船の進航を為したり
航程正午三百二十五浬、位置北緯三十九度五十八分・東経百四十九度五十分、風北東
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.68-69掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.75-86

  ○第一編 本記
     第二章 渡航日誌
八月二十一日(土)晴
中食後喫煙室に総会を開き、専門家委員会を組織するに決し、神田男を委員長に推し、即刻委員会を開催して、各専門家の取調希望事項を委員長手許まで差出す事に決す。午後三時無線電信を以て、
大阪府枚方火薬庫爆発、人畜死傷の事』を報じ来る。即刻団長より第四師団長宛、土居氏より大阪府知事宛にて、見舞の電報を発す。
今日より各種競技始まり、甲板には『シヤフルボード』・輪投等に、勝負を争ふ声賑はしく、又喫煙室には囲碁・将棋に雌雄を争うて余念なし。今夜喫煙室に於て、船長代理ラベン氏一行に挨拶を為す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.78掲載)


ミネソタ号の正午位置 (北緯39度58分・東経149度50分)


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