「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年8月4日(水) (69歳) 渋沢栄一、銀行集会所等四団体主催の送別会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、東京銀行集会所等四団体主催の渡米送別会、丸の内東京銀行集会所に催さる。総代豊川良平の送別の辞に対して栄一答辞を述ぶ。次いで九日東京商業会議所主催送別会、日本銀行総裁松尾臣善主催送別会、十二日外務大臣小村寿太郎主催送別会、十四日大倉喜八郎他数人の発起による送別会、十五日日本貿易協会及び日本工業協会主催送別会、十六日内閣総理大臣桂太郎主催送別会開かれ、栄一之等に出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.47-53】

1909(明治42)年8月4日、渋沢栄一ら渡米実業団団員の送別と、欧州から帰国した園田孝吉(そのだ・こうきち、1848-1923)の歓迎を兼ねた会が東京銀行集会所など4団体の主催により開催されました。
栄一はスピーチの中で、日本の銀行条例が米国の制度によって発布されたことに触れ、「其先祖とも申すべき国の銀行状態を観察して参りますのは、多少趣味があらうと思ふ、況や此の如く多数の御方が、十分行つて調べて来い、手形の交換はどう云ふ有様か、興信所の仕組はどうなつて居るかといふやうな廉々を、相当な地方に付て十分観察して参れといふことは、仮令其御言葉がございませぬでも、出来るだけは調べて参る考でございます」と抱負を述べています。また、平素より交流のある同業団体の集まりであったためか、次のように打ち解けた言葉で答辞を結んでいます。

[前略] 詰り今度の旅行は前に申しまする通り、私一身としては殆どモウ之が老後の奉公仕舞ぐらゐに思ふので、[中略] 今度七十になつて初めて徴兵に取られた(笑)、年限は三箇月、志願徴兵だから、歳月は甚だ短い、十二月になると隊を出て戻つて呉る(マヽ)、斯う云ふ訳で彼方に参る積りであります(笑)、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.51掲載、『銀行通信録』第48巻第287号(1909.09)p.317-322「渋沢男爵の答辞」より)

なお、栄一はこの後も連日のように送別会等に招待され、それぞれに出席しました。
  8月9日  東京商業会議所主催送別会(亀清楼)
         日本銀行総裁 松尾臣善主催送別会(北新堀、日本銀行社宅)
  8月12日 外務大臣 小村寿太郎主催送別会(外務大臣官舎)
  8月14日 大倉喜八郎ほか発起の送別会(日本橋倶楽部)
  8月15日 日本貿易協会および日本工業協会主催送別会(浅野総一郎宅)
  8月16日 内閣総理大臣 桂太郎主催送別会(永田町官邸)
  8月17日 午餐下賜 (芝離宮