「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月18日(土) 小汽船でスペリオル湖岸の倉庫群を視察など。渋沢栄一、大統領謁見の際の演説原案を起草 【滞米第18日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十八日
午前七時起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、後旅館ノ前ヨリ蒸気船ニテ湖水ニ出テ、鉱石・石炭又ハ穀物等ノ積卸ニ関スル設備ヲ見ル、午後メーソン社ニ抵リテ午飧シ、午後市街ヲ遊覧ス、小山ノ上ヨリ湖面ヲ眺望スル光景頗ル佳ナリ、夕方一鉄工場ニ抵リ、更ニ化学工場ヲ一覧ス、午後七時再ヒメーソン結社ノ会堂ニ抵リ晩飧ス、司会者ヨリ歓迎ノ辞アリ、依テ答辞ヲ述ヘ、畢テ汽車ニ搭シ、夜十一時汽車ミネヤホリスニ向テ出発ス
明日ミネヤホリスニ於テ大統領謁見ノ筈ニ付、其際ニ演説スヘキ原案ヲ、頭本・水野二氏ニ協議シテ文案ヲ車中ニ於テ起草ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.102掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.27-30

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
九月十八日 晴 (土曜日)
朝食を車中に終り、午前九時に蒸汽船に搭乗して湖水に出で、港湾の形勢より鉱石・石炭又は穀物の倉庫及是等の物品積卸に関する設備を見、夫れより特別電車に乗じてメーソニツク・テンプル(メーソン社)に到りて午餐の饗を受け、一時半自働車に分乗して案内に連れられ市街を遊覧す、公園の小山の上よりシユーペリオル湖を眺望する光景頗る佳なり、午後四時小山を下り、鎔鉄炉製造所・石炭酸製造所、及鉄工場を一覧し、六時再度メーソン社に到り、商業倶楽部の会頭プリンス氏及会員と接見し、六時半同処に於て有名の珍味白魚料理の饗を受けたり、同会頭プリンス氏の鄭重なる歓迎の辞に対し、青渊先生一行を代表して答辞を述べられ、十一時汽車に戻り、同三十分ミネアポリス市に向つて発車す。
明日ミネアポリス市に於いては、大統領と謁見の筈なれば、青渊先生には其際に演説せらるべき原稿起草に付き、水野・頭本の両氏と協議し、深夜眠に就かれたり。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.109-110掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.131-157

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第九節 ヅルース市
九月十八日 (土) 晴
午前九時、一同は歓迎委員の先導にて、埠頭より特別の小汽船に乗じ、シューペリオル湖の一部を航走し、各穀物倉庫・製材会社・鉱鉄船渠等より、湖辺の景色などを巡覧す。当港は各地よりの穀類・鉄鉱等の集散地にして、船舶の往来頗る盛なり。但し毎年十二月より翌年四月中旬頃までは、堅氷の為めに交通を絶たるゝと云ふ。
又此湖口に突出せる長島と本土との間には、電車を空中に吊りて、往復せしむべき大鉄橋あり。蓋し世界無二の設備なりと称す。
斯くて十二時半メソニック・テンプルに至り、階下の広間にて昼餐の饗応を受け、午後は一同自働車に分乗して、市内及後背の山上に上り、全市を俯瞰するに、眺望又頗る佳なり。
午後六時半より、再びメソニック・テンプルに向ひ晩餐会に臨む、卓上に湖水の名物「ホワイト・フィッシユ」あり、此魚直訳すれば白魚なれども、其形我が国の白魚に似るべくもあらず、寧ろ大さは鯛・鱸に類し、風味も淡泊なる魚なり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.119掲載)


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